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横浜美術館開館30周年記念/横浜開港160周年記念
横浜美術館コレクション展 2019年9月21日(土)-2020年1月13日(月・祝)
「東西交流160年の諸相」

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歌川(五雲亭)貞秀《横浜鈍宅之図》(部分) 1861(文久元)年  多色木版、大判錦絵三枚続 横浜美術館蔵(齋藤龍氏寄贈)

展覧会概要

序章 《パシフィック―シャタード・ブルー》
第1章 藤田嗣治と長谷川潔のパリ
第2章 ドイツのモダニズムと日本
第3章 多民族アメリカの「日系」たち
第4章 岡田謙三のユーゲニズム
第5章 アンフォルメルと具体
第6章 ネオダダ
第7章 横浜浮世絵と輸出工芸
第8章 下村観山の滞欧経験
第9章 木版画の日本
第10章 明治写真とニッポンの風景 

特集:横浜の陶工たち—初代香山と三代良斎

イサム・ノグチと近代彫刻

作品リスト [1,288KB] 
  

開港をテーマにした展覧会の多くは、幕末・明治期の洋風表現の受容と展開、あるいはこの時期に来日した画家、版画家、写真家の活動に主眼を置いてきましたが、今回は時代を限定せず、開港期から第二次世界大戦後にいたる長い時間の中で、どのような異文化の響き合いが実現したのかを、いくつかのトピックで紹介します。

同時開催中の企画展「オランジュリー美術館コレクション ルノワールとパリに恋した12人の画家たち」の出品作の制作期とほぼ同時代にあたる、第一次世界大戦後のパリで、自身の表現を切り拓いていった藤田嗣治と長谷川潔。同じ頃、バウハウスを中心とするドイツの新しいデザイン理論を吸収し、その成果を活かして宣伝誌『NIPPON』を発刊した名取洋之助。多民族の共生と摩擦を抱えるアメリカ社会で、日系人や日本人の美術家たちが残した足跡。移動手段も情報メディアも一気に高速化した第二次世界大戦後には、フランスの「アンフォルメル」と日本の「具体」のように、一方的な影響関係ではなく、問題意識を共有しながら波及していく動向も現れます。

他にも、「木版画」をキーワードに、浮世絵の伝統に連なる絵師として日本に 生きたポール・ジャクレーや、最新の日本版画を戦略的に海外に打ち出した 吉田博の仕事をご覧いただくコーナーも設けました。これら種々のトピックの 間に、新収蔵品を多数含めた「横浜浮世絵」や「明治写真」など、開港期の特 集展示を織り込みます。 
壮大な長編というより短編集のような構成なので、お気軽に展示室を散策してみてください。 コレクション展を出たら、階下のアートギャラリー1にも足を延ばしていただければと思います。こちらでは、《ペルリ提督横浜上陸の図》に焦点をあて、この歴史的な事件をとらえたイメージ群を検証する企画「絵でたどるペリー来航」を開催しています(11月10日まで)。 1859年に始まった「東」と「西」の文化の交わりは、さまざまな果実を産み出してきました。横浜美術館のコレクションをめぐる二つの展覧会が、現在につづく豊饒な、生き生きとした歴史の出発点として、「開港」を見つめなおす機会となることを願っています。 

展覧会のみどころ

1.「横浜開港 160 周年記念」をテーマに二つの展覧会を開催
開館 30 周年を迎える横浜美術館では、「横浜開港 160 周年記念」をテーマに、「横浜美術館コレクション展 東西交 流 160 年の諸相」と、「絵でたどるペリー来航」展を開催します。 学芸員とエデュケーター、それぞれの視点を活かした「コレクション」に基づく展覧会をお楽しみください。

2.新収蔵作品を複数含め、「東西交流」を再考
横浜美術館コレクション展「東西交流160年の諸相」では、当館の作品収集の大きな柱でもある「東西交流」を再考します。 開港期から第二次世界大戦後にいたる長い時間の中で、どのような異文化の響き合いが実現したのか、昨年度に収蔵 したばかりのコレクションを含めつつご紹介します。

3.横浜美術館開館 30 周年を記念し、11 月 3 日(日・祝)の開館記念日はコレクション展観覧料無料! 「絵でたどるペリー来航」展はいつでも無料!

序章 《パシフィック―シャタード・ブルー》

モスリンの布にプリントされた地図は、『日本殖民論』(1891年)という本に載っている地図を拡大したものです。天地を逆にした地図の右下方に日本列島が位置し、横浜港から、南北アメリカ、オーストラリア、南洋諸島、中国にむけて弧線が伸びています。軍国主義日本を予兆するような地図の上に貼られているのは、太平洋戦争中に沈没した貨物船や戦闘機、1946年のビキニ環礁での核実験で沈んだ戦艦長門[ながと]の海中写真を刷り付けたガラス片です。「シャタード・ブルー」、直訳すれば「粉砕された青い海」。明治期の地図と昭和期の遺物の写真を重ねることで、柳幸典[やなぎ・ゆきのり]は太平洋に堆積する歴史の痛みをみごとに表現しています。
1859年に港を開き、海を通じて外とのつながりを回復していく日本の道程は、ときに他国の征服をともなうものでした。異文化交流はそうした負の面をも抱えている、そのことを想起させる作品から、「東西交流160年の諸相」の物語はスタートします。

第1章 藤田嗣治と長谷川潔のパリ
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長谷川 潔《夢》1925(大正14)年
ドライポイント 22.0×27.9cm
横浜美術館蔵

1913年にパリに渡った藤田嗣治[ふじた・つぐはる]は、19年にサロン・ドートンヌの正会員となりました。そして、独自の手法で創出した乳白色の地肌と日本の伝統的な面相筆[めんそうふで]による繊細な墨線で、エキゾチックな裸婦像を描きパリ画壇の注目を集めます。《腕を上げた裸婦》はこの時期の典型作です。 長谷川潔[はせがわ・きよし]は1919年にフランスに到着、26年にサロン・ドートンヌ版画部の正会員に加わりました。彼も20年代には、ヴィーナスやフローラといった西洋の主題を引きながら、流れるような線で描き上げたヌードを数多く残しています。 大規模な破壊と殺戮をもたらした第一次大戦の反動で、1920年代のフランスの美術界では、伝統的な主題や安定感のある表現への復古現象が起こりました。ピカソのどっしりとした裸婦も、「秩序への回帰」と呼ばれるこの動向に数えられます。藤田と長谷川のヌード表現は、彼らがそうした時代の空気を吸いながら生き生きと制作していたことを教えてくれます。

1918年[大正7]  第一次世界大戦終結。ヴェルサイユ条約調印。
1920年[大正9]  国際連盟発足。日本も常任理事国に加わる。
1926年[大正15/昭和元] 12月25日、大正天皇崩御。昭和に改元。
第2章 ドイツのモダニズムと日本

本年は、造形学校バウハウスの開校から100年目にあたります。バウハウスは14年という短い歴史のうち、ワイマール、デッサウ、ベルリンの3都市を移動。教員や学生は国際色ゆたかで、多様な文化を受け入れる流動的な教育機関でした。ここで生まれた新しい視覚表現は芸術写真の発展にもつながり、バウハウスで教えたモホイ=ナギを筆頭に、実験的な写真表現「ノイエ・フォトグラフィー(新興写真)」が隆盛します。バウハウスの活動や新しい写真は国際的に注目され、日本でモダンな表現を試みる芸術家たちの心も捉えました。 1933年、ナチスの台頭によってバウハウスは閉鎖へと追い込まれます。モダニズムの芸術作品は「退廃芸術」の烙印を押され、排斥されました。一方、この時期日本では、バウハウスで培われたデザインや報道写真の手法が、帝国主義のプロパガンダに利用されていきます。世界的な非常時にあって、日独の芸術家は常に政治的なスタンスをも問われることとなりました。 1933年[昭和8] ナチスが政権を獲得。

1936年[昭和11] ベルリンオリンピック開催。
1938年[昭和13] 日本で国家総動員法が制定される。
1939年[昭和14] 第二次世界大戦勃発。

第3章 多民族アメリカの「日系」たち
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野田英夫《二人の子供》 1934(昭和9)年
油彩、カンヴァス 75.0×90.2cm
横浜美術館蔵

横浜が開港する以前、日本とアメリカは互いに未知の部分が多く、円滑な意思疎通すら難しい状況でした。1859年の開港以降、両国の交流は急速に発展し、日本人の米国への移民も増加します。清水登之[しみず・とし]や国吉康雄[くによし・やすお]は、青年期にアメリカへ渡り現地で美術を学んだ芸術家です。写真の分野ではヒデハル・フクヤマ、ハリー・K・シゲタらが米国でモダンな表現を体得。日系二世としてアメリカに生まれた画家の野田英夫[のだ・ひでお]や、日本人の父とアメリカ人の母をもつ彫刻家イサム・ノグチは、日米を往復しながら活躍しました。 ふたつの国家に挟まれた彼らの創作活動には、常に不安や困難がつきまとっていました。1929年には世界恐慌が始まり、情勢はしだいに悪化してゆきます。第二次大戦の勃発により日本とアメリカが敵対関係となると、日系人の強制収容政策が施行され、さらに厳しい環境となりました。彼らは、新天地のアートを享受する喜びと、移住者ゆえの苦難を抱えながら、独自の表現を追求したのです。

1858年[安政5] 日米修好通商条約の締結。
1869年[明治2] 日本人初の移民団がカリフォルニアに入植。
1924年[大正13] 1924年移民法(通称「排日移民法」)の制定。
1941年[昭和16] 日本がハワイの真珠湾を攻撃。太平洋戦争開戦。
第4章 岡田謙三のユーゲニズム

1902年に横浜に生まれた岡田謙三[おかだ・けんぞう]は東京美術学校(現・東京藝術大学)を中退し、フランスに渡って新しい表現を模索しました。1927年に帰国したのち二科会で活動しますが、制作に行き詰まりを感じ、1950年、今度はアメリカに渡ります。ニューヨークを席巻していたポロックやロスコの抽象表現主義を当初はまったく理解できず、混迷のうちに試行錯誤を繰り返しますが、ギャラリストのベティ・パーソンズに見出され、1953年に初個展を開催。以降、彼女の画廊を拠点に作品を発表します。
斜めの線で雨脚を描いた《雨》、能舞台の柱に想を得たとも言われる《垂直》、千代紙の切り絵のように色の面を重ね、絵画における「図」と「地」の区分を無効にした《オレンジ・ナンバー2》など、アメリカの批評家たちは、岡田の抽象表現に融合された東洋的な要素を高く評価しました。画家自身もみずからの作品世界を、「幽玄」の語を引いてユーゲニズム(幽玄主義)と称しています。

1945年[昭和20] 第二次世界大戦終結。
1947年[昭和22] アメリカ国務長官が欧州復興計画(通称「マーシャル・プラン」)を提唱。
1950年[昭和25] 朝鮮戦争勃発。
1951年[昭和26] サンフランシスコ講和条約締結。

第5章 アンフォルメルと具体
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ジャン・フォートリエ《無題》1956年
グワッシュ、石膏、カンヴァスに貼った紙
50.0×65.0cm 横浜美術館蔵

第二次大戦終結前後にぐにゃぐにゃとした形象を描いていたフォートリエやデュビュッフェ、ヴォルスらの作品を、批評家のミシェル・タピエは「アンフォルメル(不定形)」と名づけ、人間存在の不安を表現した新しい動向として称揚しました。1950年代前半に渡仏した今井俊満[いまい・としみつ]や堂本尚郎[どうもと・ひさお]は、パリでこの運動に参加することになります。 戦後の復興から高度経済成長への転換期にあった日本でも、前衛運動が盛り上がりをみせました。「自由な精神を具体的に提示」しようと1954年に結成された具体美術協会は、その代表格です。床に拡げたカンヴァスに足で絵具を塗りたくる白髪一雄[しらが・かずお]。カラフルな電球をつなげた服を着てパフォーマンスを行う田中敦子[たなか・あつこ]。カンヴァスを斜めにして絵具を垂れ流す元永定正[もとなが・さだまさ]。みずからの身体と物質との格闘を繰り広げる彼らの活動は、57年に来日し「具体」をアンフォルメルの日本での展開と位置づけたタピエによって、国際的に紹介されました。

1946年[昭和21] サルトルの “L’Existentialisme est un humanism”(邦題『実存主義とは何か』)刊行。
1953年[昭和28] 日本でテレビ放送が始まる。
1954年[昭和29] アルジェリアで独立戦争勃発。
1956年[昭和31] 経済企画庁編集の『経済白書』が、「もはや〈戦後〉ではない」と謳う。
第6章 ネオダダ

第二次大戦後の美術の中心は、戦中に亡命してきたヨーロッパの芸術家を受け入れ、国土の戦禍も少なかったアメリカへと移行していきます。1964年のヴェネチア・ビエンナーレにおけるラウシェンバーグの大賞受賞は、この変化を象徴するできごとでした。日用品や廃品、巷にあふれるイメージを作品に取り込み、芸術の垣根を打ち崩していったラウシェンバーグやジャスパー・ジョーンズたちの制作は、20世紀初頭のダダを継承するものとして「ネオダダ」と呼ばれます。
彼らの仕事は日本にも紹介され、1960年には吉村益信[よしむら・ますのぶ]、荒川修作[あらかわ・しゅうさく]、篠原有司男[しのはら・うしお]らがネオ・ダダイズム・オルガナイザーズを結成します。ジョーンズとラウシェンバーグの作品に登場する「星条旗」と「コカ・コーラ」を摸倣した篠原の《ドリンク・モア》は、政治経済にとどまらず世界の覇者に伸し上がったアメリカ文化に対する複雑な感情と、それを制作のパワーに逆転する作家の強靭な精神を感じさせる作品です。

1945年[昭和20] ブレトン・ウッズ協定(アメリカ・ドルを基軸とした固定為替相場制)発効。
1955年[昭和30] 黒人差別に抗議するキング牧師の呼びかけで、アラバマ州モンゴメリーでバス乗車ボイコット運動が起こる。
1963年[昭和38] ケネディ大統領がダラスで暗殺される。
1964年[昭和39] 東京オリンピック開催。日本コカ・コーラ社が協賛に加わる。

第7章 横浜浮世絵と輸出工芸
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歌川(五雲亭)貞秀《横浜鈍宅之図》
1861(文久元)年  多色木版、大判錦絵三枚続 横浜美術館蔵(齋藤龍氏寄贈)

ときの風俗や流行を世に知らしめる浮世絵の役割は開港期も変わらず、絵師たちは続々と流入する洋風文化を活写し、新しい時代の到来を大衆に紹介していきました。開港地を広範に見下ろす鳥瞰図を得意とした貞秀[さだひで]を筆頭に、芳員[よしかず]、芳虎[よしとら]、三代広重[さんだい・ひろしげ]、周延[ちかのぶ]たちによって、洋館、洋装の人物、サーカスや軽業、1872年に新橋・横浜間に開通した鉄道、外国の曲に日本語の歌詞を付した「唱歌」をうたう人びとなどが、あざやかな色彩で生き生きと描かれていきます。 同じころ、輸出用の陶磁器の生産を目的に京都から横浜に移り窯を開いたのが初代宮川香山[みやがわ・こうざん]でした。精緻で豪奢な高浮彫[たかうきぼり]を施した香山の真葛焼[まくずやき](マクズ・ウェア)は、世界各地で人気を博すことになります。 新奇な西洋風物を伝統的な木版画で描いた横浜浮世絵と、日本の手業の粋を凝らして西洋の美意識に衝撃を与えた真葛焼。ふたつの対照は、開港期における異文化の「受容」と「発信」のありようを端的に示しています。

1858年[安政5]  アメリカを皮切りに、オランダ、ロシア、イギリス、フランスと江戸幕府が修好通商条約を結ぶ。 1867年[慶応3]  大政奉還。翌年、明治に改元。
1873年[明治6]  ウィーン万国博覧会に明治政府として参加。
1877年[明治10] 第一回内国勧業博覧会開催。
第8章 下村観山の滞欧経験

1889年に東京美術学校(現・東京藝術大学)の第一期生となり、卒業とともに同校の助教授に任ぜられるほどの技量を誇った下村観山[しもむら・かんざん]が、初の文部省留学生として横浜港からイギリスに渡ったのは1903年2月21日のこと。2年のイギリス留学と半年にわたるヨーロッパ巡遊をとおして、水彩画を研究したり(ジョン・エヴァレット・ミレイ《ナイト・エラント》の模写)、絹地に日本画材でルネサンス絵画を模写したり(ラファエロ《椅子の聖母》《まひわの聖母》の模写)と、貪欲に西洋の表現を摂取しました。
出発前に観山は、新聞記者のインタビューに対して、「色などもよく調べてみたい。西洋画は写真で見ているが、写真では色がわからない。海外でいちばん見たいと思っているのは色だ」と語っています。帰国後の大作《小倉山》[おぐらやま]の絢爛たる色遣いや、《維摩居士》[ゆいまこじ]の顔面にみられる陰影描写に、目的意識をもって滞欧した画家の着実な成果を認めることができるでしょう。

1900年[明治33] パリ万国博覧会にあわせて農商務省が “Histoire de l’art du Japon”(日本美術史)を刊行(翌年『稿本日本帝国美術略史』の題で日本語版刊行)。
1902年[明治35] ロシア帝国の極東進出への対抗措置として日英同盟締結。
1904年[明治37] 日露戦争勃発。
1905年[明治38] 夏目漱石『吾輩は猫である』の連載が開始。

第9章 木版画の日本

19世紀末に北斎や広重の浮世絵がジャポニスムの波を引き起こしたように、日本の木版画は西洋人の高い関心を引き続けました。
3歳でフランスから来日したポール・ジャクレーは、最初は日本画を学んでいましたが、1933年に「若礼[ジャクレー]版画研究所」を設立。彫師・摺師と協働し、日本、南洋、朝鮮、中国の風俗をあでやかな色彩で捉えた特異な木版画を次々と発表しました。
山岸主計[やまぎし・かずえ]は、ジャクレーの版画の第一作、および最初の版画集の収録作を手がけた当代随一の彫師ですが、1926年に文部省の委託で欧米の版画の動向を調査した後、みずからの「世界百景」シリーズに着手します。
1899年の初渡米以来、外遊を繰り返していた吉田博[よしだ・ひろし]は、同時代の日本の木版画の巡回展をアメリカのキュレーターと共同企画します。自作を含め、浮世絵の分業を大正期に復活させた「新版画」の10作家342点によるこの大規模な展覧会は、アメリカにおける新版画の人気を確立することになりました。

1923年[大正12] 関東大震災。
1925年[大正14] 治安維持法制定。普通選挙法制定。
1932年[昭和7]   溥儀を元首とする満州国の建国を宣言。
1933年[昭和8]   ルーズベルトがアメリカ合衆国大統領就任。世界恐慌の克服にむけニューディール政策に着手。

第10章 明治写真とニッポンの風景

開国に前後して、欧米の新しい視覚メディアが日本にもたらされました。1863年頃に来日した英国人フェリーチェ・ベアトは、国内各地の風景を写真に収め、同じ英国人のチャールズ・ワーグマンもまた、日本の風景・風俗をモチーフに多くの絵画を描いています。彼らをはじめ、多くの外国人写真師や画家が居留した横浜は、写真や洋画の技法を普及し、後進を育成する舞台となりました。
外国人と日本人との交流をとおしてそれぞれに発展を遂げていった写真と洋画ですが、当時の写真の多くが彩色されていたことにも窺えるように、このふたつのメディアは今日よりも密接な関係にありました。写真師も画家も、同じような経路で各地の都市や名所を旅し、しばしば同じ場所を撮影/写生しています。
本章では、多様なメディアを通してとらえられた各地の風景を、写された(描かれた)場所やモチーフのつながりに着目して展示します。彼らと旅するように、明治期の「ニッポンの風景」を巡ってみてください。

1859年[安政6] 開国(横浜、函館、長崎の開港)。
1862年[文久2] 下岡蓮杖[しもおか・れんじょう]が横浜・野毛に写真館を開設。
1867年[慶応3] 大政奉還。
1872年[明治5] 新橋・横浜間に日本初の鉄道開設。

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玉村康三郎[推定]《富士山、東海道より》
1880年代頃(明治中期)
アルビュメン・シルバー・プリント、手彩色  19.3×24.9cm
横浜美術館蔵(梶川憲雄氏寄贈)

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熊澤喜太郎[画作兼印刷]《田子之浦真景》
1892(明治25)年 
リトグラフ、手彩色 26.3×37.3cm
横浜美術館蔵(小島豊氏寄贈[小島烏水旧蔵])

特集:横浜の陶工―初代香山と三代良斎

1842年に京都に生まれた初代宮川香山[みやがわ・こうざん]は、開港した横浜にいちはやく拠点を移し、現在の南区庚台[かのえだい]に窯を開きました。高浮彫[たかうきぼり]の装飾をほどこした輸出用の陶器で名をあげますが、輸出産業にかげりがみえてくると、清朝磁器の研究を下地に、染付や釉薬の味わいを活かした高雅な磁器の制作に転じていきました。
1888年に東京浅草に生まれた三代井上良斎[いのうえ・りょうさい]も、家業を継いで輸出用の陶磁器を生産していました。1914年横浜に転居し、関東大震災を機に現在の南区永田東[ながたひがし]に登り窯[のぼりがま]を開いて、本格的に創作陶芸の制作に取り組みます。古今の焼き物の技術に通じ、近代陶芸の祖・板谷波山[いたや・はざん]に師事した良斎は、器形や施釉に工夫をかさね、古陶の伝統にモダンな感性を吹き込んだ、多種多様な作品を生みだしました。

基本情報

会期2019年9月21日(土) ~ 2020年1月13日(月・祝)                                            
開館時間    10時~18時
*毎週金曜・土曜は10時~20時
*9月27(金)28日(土)、1月10日(金)11日(土)12日(日)は10時~21時
*入館は閉館の30分前まで
休館日        木曜日(2019年12月26日[木]は開館)、2019年12月28日(土)~ 2020年1月2日(木)
主催横浜美術館[公益財団法人横浜市芸術文化振興財団]

観覧料

一般500(400)円                   
大学・高校生300(240)円                     
中学生100(80)円
小学生以下無料

*( )内は有料20名以上の団体料金(要事前予約)
*毎週土曜日は、高校生以下無料(生徒手帳、学生証をご提示ください)
*2019年11月1日(金)~4日(月・振休)は、高校生以下観覧無料(中学生・高校生は要生徒手帳提示)
*2019年10月22日(火・祝)、11月3日(日・祝)はどなたでも観覧無料 
*障がい者手帳をお持ちの方と介護の方(1名)は無料
*毎月第3月曜日は横浜市在住の65歳以上の方無料(「濱ともカード」をご提示ください)
*企画展ご観覧当日に限り、企画展の観覧券でコレクション展もご覧いただけます。  

関連イベント

スペシャル・レクチャー
「模倣というオリジナリティ:篠原有司男のイミテーション・アート」
(コレクション展「東西交流160年の諸相」)

戦後のアメリカ美術の世界覇権という視点でロバート・ラウシェンバーグの仕事を検証した 『越境と覇権』(三元社、2015年)の著者が、《ラブリー・ラブリー・アメリカ(ドリンク・モア)》を中心に、篠原の制作の魅力を紹介します。

日程2019年9月23日(月・祝)
時間14時~15時30分(13時30分開場)
講師池上裕子(神戸大学国際文化学研究科 准教授)
会場横浜美術館円形フォーラム
参加費無料(先着80名、当日10時より整理券配布)

ギャラリートーク
(コレクション展「東西交流160年の諸相」)

学芸員やエデュケーターが、さまざまな切り口で作品の見どころや楽しみ方を紹介します。

日程①2019年9月27日、10月11日、25日、11月8日、22日、12月13日、27日、2020年1月10日 いずれも金曜日
②2019年9月28日(土)
③2019年10月12日、26日、11月16日、12月7日 いずれも土曜日
時間①14時~14時30分
②19時30分~20時
③18時30分~19時  
会場コレクション展展示室
参加費無料(申込不要、当日有効の観覧券が必要)

市民のアトリエワークショップ
「篠原有司男の〈複製絵画(イミテーション)〉をつくる」
(コレクション展「東西交流160年の諸相」)

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篠原有司男 《ラブリー・ラブリー・アメリカ(ドリンク・モア)》 
1964(昭和39)年
蛍光塗料、ラッカー、石膏、金属、ビン(コカコーラ)、カンヴァス 64.5×46.7cm
横浜美術館蔵

ボクシング・ペインティングやドキュメンタリー映画「キューティー&ボクサー」などで知られる現代美術家、通称「ギュウちゃん」こと篠原有司男氏がキャリアの初期に制作した《ラブリー・ラブリー・アメリカ(ドリンク・モア)》(1964年)。篠原氏は同年の『美術手帖』で、その制作方法を詳細に解説し、複製絵画(イミテーション)をつくることを読者に呼びかけています。今回は、学芸員による解説の後、当館エデュケーターの指導により本作の複製を試みます。作品からどんなメッセージを読みとることができるか?制作方法を誌上公開した意図とは?つくることを通してその真相に迫ります。

コース番号・日程[58] 2019年11月24日(日)【全1回】
時間10時30分~16時30分(休憩含む)
講師当館エデュケーター、学芸員
会場横浜美術館市民のアトリエ、コレクション展展示室
対象12歳以上
定員14名(応募者多数の場合は抽選)
参加費5,000円 ※材料費含む
申込方法2019年9月1日(日)より申込受付開始
(1)申込みフォーム
※お申込み1名様につき1つのメールアドレスが必要です。
 同じメールアドレスで複数名のお申込みはできませんのでご注意ください。
(2)往復はがき
申込締切2019年11月2日(土) ※必着 受付終了

アニバーサリー・ギャラリートーク(コレクション展「東西交流160年の諸相」)

横浜美術館開館30周年を記念して、担当学芸員がリレー形式で、ちょっとゆったり展示をご案内します。

日程2019年11月4日(月・振休)
時間15時~15時45分
会場コレクション展展示室
参加費無料(申込不要、当日有効の観覧券が必要)

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