本展開催によせて、澄川喜一と親交のある方からメッセージをいただきました。
本展準備のため、澄川喜一のアトリエを訪問しました。普段は公開していない貴重な制作現場の様子をご紹介しています。
「アトリエ訪問記」は横浜美術館ブログで公開しています。
幼少期から現在までの思い出や体験談、作品の話、制作の話、プライベートな話など、さまざまなお話を伺いました。彫刻家としてだけではなく、普段の澄川喜一の素顔にも迫ります!
父親も母親も厳しかったです。戦時中という時代もあって父親は特に厳しかった。
遅くにできた子どもだったので、両親がとても喜んだ。そこから名前に「喜」という字を入れたと聞いています。
愛嬌が良かったです。クラスの級長もやっていました。クラスのまとめ役でした。
小さい頃から絵が得意でよく描いていました。
戦時中だったため、慰問袋に入れる絵を描く人に選ばれて、戦うお兄さんたちの顔や突撃する姿を描いて、慰問袋に入れて贈っていました。町から戦地へ出征する人たちへの励ましです。
竹ひごで模型飛行機を作って遊んでいました。
学校の2階からみんなで飛ばして、僕の飛行機が1番遠くまで飛んだ。
小さい頃からものづくりが好きで得意でしたね。
アニメはまだない時代です。漫画はタンク・タンクロー、ノラクロが好きでした。
自分で漫画の続きを書いたりもしました。
ものづくりになりたかったので、工業学校を選びました。島根県内の学校より、山口県の岩国の学校の方が距離が近かったので岩国に行きました。親戚も岩国にいました。
岩国には、日本で一番良い軍の飛行場がありました。良い飛行場というのは、気候や地形や気象条件がいいということ。岩国は日本の誇りでした。僕も飛行場で飛行機を押していた。そこから戦地へ向かう飛行機がたくさん飛んで行きました。当時はわからなかったが沖縄へ向かう特攻機もたくさん飛んで行ったそうです。
当時は戦争中で軍人教育だったけど、戦争が終わってから自由に絵を描けるようになりました。戦中はB-29の絵を書かされていた。戦争が終わって、何をやってもいいぞ!と自由になって、圧力から一気に解放されてとても嬉しかった。そこから錦帯橋の絵を描き、調べる様になったのがきっかけで、彫刻家になろうと思いました。
成績は良かったです。でも、当時、映画館の看板の絵を描いていたので、遅刻はよくしていましたね。工業学校が坂の上にあって、まわりに民家がなかったから、遠くから生徒が学校に来るのが窓からよくみえた。だから遅刻をするのがよく見えたんだよね。でも、先生は僕のことを認めてくれていたんです。昔はいい先生が多かったですね。
岩国の映画館では、屋根の上に掲げてあるポスターを一枚一枚手で描きました。水彩画で俳優の顔を一晩で描き上げて、それが凄く勉強になりました。給料は出なかったが、支配人が油絵具やカンヴァスなどの画材をどんどん買ってくれました。当時は、画材が高くて油絵具は輸入品で滅多に買えなかったんですよ。
通っていた工業学校には絵の先生がいなかったので、商業学校の先生が美術部に指導しにきてくれました。その先生が藝大出身で平櫛田中先生のことを教えてくれた。当時から絵が上手くて周りに褒められていたから天狗になっていたのを、その先生が映画館の看板なんか描かずに、ちゃんとした絵を本気になって描け!絵の勉強をしろ!と言ってくれました。それから看板を描きながら、デッサンの勉強をしました。
当時、木彫は衰退していました。木を削る人が少なくなっていたので、塑造を専攻しました。塑造は粘土に立体で自由に形をつくること。それがとても勉強になりました。
木彫は大学3年生のとき、木が面白そうだと思って少しずつやるようになりました。藝大の学生のときは塑造を学んでいたので、木彫はいわば我流。でも、岩国の工業学校の時にバットなどを旋盤で作っていたしそれが勉強になっていました。工業学校にいたときに色々とやっていたので、それが下地になり藝大に入っても大変じゃなかった。普通科から藝大に入った人は大変でしたよ。
藝大の芸術祭の発祥が我々の頃でした。わりかし毎年、中核的に参加しました。
白塗りや変な化粧をしたり、いろいろやりましたね。
副手は研究室の中から先生が指名して選んでいたのですが、私が1番に選ばれました。副手は無給職員だったけど、その代わりにアトリエを使うことができました。だからみんな研究室に残りたかったんだよね。だけど、菊池一雄先生が僕を見込んで、彫刻家はいつまでも学校に残っていちゃいけない。追い出すぞ!父親に頼んでアトリエを作って貰いなさい、と僕だけ指導してもらった。
彫刻家になる事を親戚はみんな反対したが、お父さんだけは協力してくれました。それは、この子は才能があるからと、中学から高校の先生がお父さんを説得してくれたから。それでお父さんが応援してくれて、都内はとっても高いので、清瀬に土地を買ってやろうと、80坪を当時80万で買ってくれました。その頃の80万はすごい金額でしたよ。
今は池袋まで急行で25分くらい。昔は急行なんてない時代でした。
当時、清瀬には空き地や畑がたくさんありました。
彫刻だと制作の時に音がでるから密集地はだめ。焚火もするから灰もでる。だから広くないとだめなんです。
今では都営住宅がいっぱい立ちましたね。昔はコークスでお風呂を焚いていました。コークスの燃料に火をつけるには木くずがたくさん必要。うちは木くずがたくさん出るから、周りの人がごみ袋を持ってくるんです。それで木くずをわけてあげていました。それからガスが登場したら誰も取りに来なくなりました。そんなこともありましたね。
塑造の具象彫刻は基本の勉強。大学時代にしっかりやりました。
そこから自分の考えを何とかだそうと木を彫り始めた。それで少しお金が入りはじめて、アフリカのドゴン族の木彫の古い仮面を骨董屋から買いました。そこから顔をイメージするものを作るようになって「MASK」シリーズを作りはじめました。
教授になってから、学校に行く日数を決めました。教授は偉いから毎日は学校に行かなくてよかった。その他の日を制作にあてました。制作日は、アトリエから出てこない!
指導する教授は責任があるから、その人に才能があるのかを見極めるのが大変。才能があるかないかは見ればわかります。テーマを考えたり、技術を鍛錬するのは生徒本人です。本人が光はじめたら応援します。
木を使いはじめて、何年もたって、木によっていろいろな美しさがあると気づきました。
ノミで彫った跡のデコボコも綺麗なんだけど、そうじゃなくて僕は木を削りはじめました。それが美しさを持っていると感じた。木の使い方によってすごく綺麗。
昔は良い木でも切って・叩いて・打ってという事もしていましたが、そうじゃない方が木が喜ぶというのがわかった。年齢を重ねて木との話し合いができるようになったんだね。
削り出すといのは、なかなか木がゆるしてくれない。こうゆう風にして欲しいって言うのが見え始めて、わかるようになりました。「これはこうゆう風なのがいいよ」と木に教わっています。
木を美しいかたちに削り出すのが僕の仕事。それに尽きる!
両方あります。作りながら形がきまる場合もあるし、最初からこれしかないという時もある。それは木をみればわかります。木と相談する。それが楽しい。
東京スカイツリー®もそうだけど大きいものは1人ではできません。技術者、設計者と僕がいないとだめ。僕は、設計はできないから設計者と相談しながらやる。三者会談しながら作ります。
いろいろな人が引っ張ってくれたから、注目されはじめたのは30代からだと思う。
だけど生活が苦しいときもありました。材料も買わないといけないしね。
木の美しさ、それが魅力です。
突然沸いてくるときもあるし、探すときもある。
何かを見ていてこの形が面白いと思うこともある。いろいろです。
長い時は2~3年かかることもあります。1つの作品をずっと作るのではなく、1回その作品から離れて、少ししてからまた始めることもある。1つだけというのも大切だけど僕はいろんな事をやります。パッとできる時もあります。
「そりのあるかたち」シリーズのような大きな作品は1年に1点です。
小品はずいぶん作っています。
いろいろです。ノミ、ノコ、カンナなどを使います。ノミは切れなくなるので毎朝研いでいます。
思った通りに出来なくて失敗すると大変です。上手くいったら楽しい。
ない。自分だけの静かな空間で、その時の気分で静かな音楽を聞きながら集中して作ります。
いつもアトリエにある木をみています。木は乾燥してくる。木は生きている。
毎日木の様子をみて、今制作に適しているものを使います。
ごちゃごちゃしているのがいい。ごちゃごちゃしていても自分は何処に何があるのかわかります。
学生の頃から作業をするときはオーバーオールを仕事着としています。
動きやすくて楽だし、洗濯しやすい。丈夫なところがいい!
同じ色・柄のものを2着持っています。
たくさんあります。2018年の《そりのあるかたち》は成功した作品です。今回の展覧会のチラシとポスターのメインビジュアルになっています。あとニューヨークの個展で展示した《木の群れ》(1992年)には思い入れがあります。他にも今回の展覧会に僕の好きな作品がたくさん出ているので、ぜひ見て欲しいです。
お世話になった方々にご挨拶にいったりしています。お礼奉公ですね。
仕事。
仕事。
なんでも好き。
彫刻家しかない。彫刻家にしかなれなかったと思います。
昔はよく聞いていましたが全部、捨てました。今はFMとかラジオをよく聞きます。
なんでも好き。犬派・猫派かと聞かれれば、犬派。今まで15匹くらい飼いました。
もう一回、彫刻家になりたい。
今年は食べてない。
この前、ツナマヨネーズを食べたら美味しかった。
豆腐。
いっぱいいるけど、西郷隆盛。西郷さんは面白い人だね。
これもいっぱいあるけど、「思いやり」。
鉋(カンナ)。
今はそんなに元気がないから、別にない。
冬から春に向かう季節。花盛りの季節。ちょうど今頃ですね。
野球の時もありましたが、今はバスケットボールが面白い。昔、野球部にいたこともありましたね。レギュラーになれなくて辞めてしまいました。
最近は全然みなくなりました。昔は「暁の脱走」が好きでした。映画館の看板も描きました。
アホ。
いくつもあって選べません。
ちょうど清瀬にアトリエを構えて少しした頃ですね。忙しいときでした。オリンピックは、テレビでちょっと見ていました。
別に愛されてないよ、僕はたくさん愛しているけどね。
四股踏みです。北の湖というお相撲さんと縁あってよく話をしていました。北の湖とは一緒にサウナも入りましたよ。僕が彫刻で足腰をよく使っているから四股を踏むのを教えてくれた。雨が降っても必ず毎日20回くらい踏みます。
開港以降、外国の船や、色んな人やモノが出たり入ったりしているインターナショナルな街だと思います。僕と同郷の森鴎外は横浜市歌を作詞しているね。
活躍している。全国でも名が通っているし歴史もある。
特にない。
もう少し頑張りたい。
横浜にご縁があって大きな展覧会をやっていただけるのは本当に有難い。私の一生の楽しみだし、お礼を申し上げたい。こんなに大きい展覧会をやっていただいた事はない。感謝、感謝。
木を主にした仕事をしています。みなさんにご支援していただいた結果が大きな展覧会に結びつきました。ありがとうございます。
長生きしたい。
― 澄川先生ありがとうございました ―
360°映像で展覧会の臨場感を体験。「日経VR」で「澄川喜一 そりとむくり」展公開!
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1951年、東京・新宿にスタジオ設立。50年代から60年代に数多くの日本映画衣裳を担当。65年ニューヨークで初の海外コレクションを発表。77年からパリ・オートクチュール組合に属する唯一の東洋人として活動を展開した。ミラノ・スカラ座のオペラ「マダム・バタフライ」やパリ・オペラ座のバレエ「シンデレラ」をはじめ、創作能や新作歌舞伎、劇団四季の作品など舞台衣裳も多く手がける。東京女子大学卒、島根県出身。
現在、水戸芸術館にて展覧会「森英恵 世界にはばたく蝶」を開催中(2020年2月22日~5月6日)。
昭和24年(1949)覚入の長男として生まれました。高等学校まで京都で過ごし、大学は東京藝術大学の彫刻科に入学。昭和48年(1973)卒業後、ローマへ留学し、ヨーロッパの美術に広く触れると共に、日本の文化・伝統の大切さを身にしみて学び、2年後に帰国。樂茶碗の制作をはじめます。しかし、その4年後に覚入が急死。翌年昭和56年(1981)15代吉左衞門を襲名。襲名の2年後に東京、京都、大阪にて襲名の初個展を開催。令和元年7月に長男篤人に代を譲り、直入に改名。
フランス政府・芸術文化勲章シュバリエ、毎日芸術賞、MOA岡田茂吉優秀賞、日本陶磁協会賞、同金賞、第一回織部賞、京都市、京都府文化功労賞、他受賞。
1951年、群馬県高崎市生まれ
1978年、東京藝術大学大学院美術研究科彫刻専攻修了
2019年、東京藝術大学名誉教授