イサム・ノグチ/長谷川三郎

イサム・ノグチ Isamu NOGUCHI(1904-1988)

イサム・ノグチ

イサム・ノグチ、1950年
撮影:三木淳
写真提供:イサム・ノグチ財団・庭園美術館(ニューヨーク)

彫刻家イサム・ノグチは1904年11月17日、ロサンゼルスに生まれる。父は詩人の野口米次郎、母はアメリカ人作家・教師のレオニー・ギルモア。幼少期を東京、茅ヶ崎、横浜で過ごし、1918年13歳で単身渡米。長じてニューヨークのコロンビア大学医学部進学課程に通いながら彫刻を学び、1924年「イサム・ノグチ」として彫刻に専念することを決意。27年パリに留学し、半年間彫刻家ブランクーシの助手として働く。1929年よりニューヨークを拠点に、肖像彫刻の制作で生計を立てながら、公園の設計、公共彫刻や舞台美術などを手がける。1931年には13年ぶりに来日し、京都や奈良を訪れる。埴輪を見るほか、陶芸家宇野仁松(うの・にんまつ)のもとで作陶する。太平洋戦争が始まると、アリゾナ州の日系人強制収容所(ポストン戦時強制収容センター)に志願して入所し、所内の公園やレクリエーション施設のデザインに取り組んだ。

1950年に19年ぶりに来日し、丹下健三、瀧口修造、長谷川三郎ら、日本の建築家や前衛芸術家と交流。とくに長谷川とは京都、奈良、伊勢などを旅し、日本の伝統美や東洋思想に関する考察を深める。1951年、丹下健三と広島の平和記念公園建設現場を訪ね、平和大橋の欄干(1952年竣工)、原爆犠牲者のための慰霊施設(実現せず)をデザイン。同年、岐阜の提灯工場を訪ね、「あかり」のデザインを始める。

また、長谷川に画家フランツ・クラインを紹介し、長谷川渡米のきっかけを作った。1957年に長谷川が没するまで続いたふたりの交友は、その後のノグチの展開を方向づけたといっても過言ではない。1988年ニューヨークで逝去(享年84)。

1951年に女優山口淑子と結婚し、翌年北鎌倉で北大路魯山人の提供した古い農家を改修して住居兼アトリエとしていた頃の作品。魯山人の窯を自由に使い、ノグチは「土と火の魔術」によって生まれる陶芸の実験に没頭した。印象的な目は片方が盛り上がり、片方が内側に窪み、ノグチのセルフポートレートともいわれる。

イサム・ノグチ《顔皿》1952年
陶、30.8×27.3×2.9cm、
イサム・ノグチ財団・庭園美術館(ニューヨーク)蔵
©The lsamu Noguchi Foundation
and Garden Museum, New York/ARS-JASPAR
Photo: Kevin Noble

彫刻における「重さのなさ」をテーマに、アルミニウム板やバルサ材を使って制作された一連の作品のひとつ。「重さのなさに意味を与えるのは重力である」と考えたノグチは、軽量なバルサ材を支柱からだらりと垂れ下がるように吊り下げた。骨を思わせる粗削りな5本の棒が風にゆれる姿は、生命の儚さを感じさせる。本作には同名のブロンズによるバリエーション(横浜美術館蔵)もある。日本初公開作品。

イサム・ノグチ《死すべき運命》1959年
バルサ材、190.5×50.8×45.7cm、
イサム・ノグチ財団・庭園美術館(ニューヨーク)蔵
©The lsamu Noguchi Foundation and Garden Museum,
New York/ARS-JASPAR
Photo: Kevin Noble

1956年、岐阜で日本式の鋳鉄技術を用いて制作したことを機に、ノグチは鋳鉄の彫刻を手がけるようになる。本作は書をモティーフとした作品で、筆の動きを形取った2つのオブジェが縦に配置されている。長谷川はノグチが山崎宗鑑や良寛の書を愛したと記している。本作はノグチが抽象彫刻と日本の美を融合させた一例といえる。

イサム・ノグチ《書》1957年
鋳鉄、木、縄、金属、178.8×43.5×40.6cm、
イサム・ノグチ財団・庭園美術館(ニューヨーク)蔵
©The lsamu Noguchi Foundation
and Garden Museum, NewYork/ARS-JASPAR
Photo: Kevin Noble

長谷川三郎 Saburo HASEGAWA(1906-1957)

長谷川三郎

長谷川三郎、1956年頃
写真提供:学校法人甲南学園 長谷川三郎記念ギャラリー

画家長谷川三郎は1906年山口県豊浦郡(現・下関市)に生まれる。青年期を芦屋で過ごし、甲南高等学校在学中には小出楢重(こいで・ならしげ)の下に通い油彩画を学ぶ。東京帝国大学に進学し、美術史を専攻。卒業論文では雪舟を論じた。

卒業後3年間パリに留学。帰国後は東京に居を構え、制作の傍ら美術雑誌にも寄稿を重ねた。1936年より抽象的作品を描きはじめ、「自由美術家協会」の創立にも関わる。日中戦争期から大戦終結にかけて、写真作品を手がけたほか、表現・言論統制が厳しくなると俳句、禅、茶道を研究。戦後1947年には「日本アヴァンギャルド美術家クラブ」を結成し、画家としての活動を再開した。

藤沢市辻堂への転居後ほどなく、1950年5月に来日したイサム・ノグチと会い意気投合する。ノグチと出かけた関西旅行によって、抽象芸術と日本の伝統美の関係に対する長年の迷いが払拭された。まもなく油彩画の制作をやめ、拓本や水墨による表現へ移行。1953年、アメリカ抽象美術家協会より「第18回アメリカ抽象美術展」への日本の抽象作家作品の出品招請を受け、「日本アブストラクト・アート・クラブ」を設立した。その代表として1954年に渡米し、約10ヵ月滞在。帰国後は東京国立近代美術館での「日米抽象美術展」(1955年)の企画に携わる。同年9月にはカリフォルニアで教鞭を執るため再渡米した。同地での活躍にも関わらず病に倒れ、1957年3月に客死(享年50)。

本作は、「自由美術家協会第一回展」(1937年7月)に出品された。長谷川は1936年4月より抽象作品の発表を開始し、制作と理論の両面で当時の日本における抽象美術をリードした。後年、友人の画家村井正誠(むらい・まさなり)は、本作を「彼の心の開け行く様を示した」作品と述懐した。

長谷川三郎《蝶の軌跡》1937年
油彩、カンヴァス、130.0×161.5cm、
京都国立近代美術館蕨

長谷川によれば、本作は前年にイサム・ノグチと桂離宮を訪問した際に受けた感銘が「発酵」を続け、はじめて形をとって現われたもの。長谷川は蒲鉾板やポスターカラーを使って「奇妙な白黒版画」をつくり、並べあわせて屏風へと仕立てた。

長谷川三郎《桂》1951年
紙本、ポスターカラー、木版、二曲屏風一隻、168.3×165.7cm、
国立国際美術館蔵
展示期間:2019年1月12日(土)~2月13日(水)

本作では、切り株や木片の地肌を直接紙に写し取る拓刷りの技法が用いられている。抽象的なフォルムが絶妙な余白をもって配されており、西洋的な抽象性と、東洋の伝統的な技法や空間感覚をみごとに融合させた作品。

長谷川三郎《自然》1953年
紙本墨、拓刷、二曲屏風一隻、
各135.0×66.5cm、
京都国立近代美術館蔵
展示期間:2019年1月12日(土)~2月13日(水)

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