作品コラム

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50枚以上のスケッチ。でも本当は存在しない風景。

西洋文化の発信地として関東大震災後に発展した銀座の街を、白描画を思わせる端正な線でとらえた作品。実はこの作品、50枚以上に及ぶ銀座の街のスケッチを元に、実際は離れていた建物を画面上で組み合わせています。
つまり清之は、単に最先端の街の風景を写し取ろうとしたのではなく、街をコラージュするようにスケッチを再構成し、緻密で色彩豊かな絵画世界を創り出そうとしているのです。《銀座B》という対の作品もあり、モボ・モガが闊歩した戦前の銀座の街の様子を伝える、貴重な記録ともなっています。

中島清之《銀座A》オリジナルA4クリアファイル
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《銀座A》
1936(昭和11)年
横浜美術館蔵(中島清之氏寄贈)

見る人の意表をつくモチーフと画面作り。
伝説の歌姫を清之が描くと…。

名曲《喝采》を熱唱するちあきなおみを描いたこの作品は、流行歌手を日本画のモチーフにした新奇さで、当時批評家たちを驚かせました。彼女の特徴的な顔立ちに魅了され、テレビに映る姿をスケッチするだけでは飽き足らず、歌謡番組の収録に実際に足を運び、作品を完成させました。箔を用いてシルエットで表した楽団員の表現や、ちあきの圧倒的な存在感を伝える色彩と構図には、それまでの実験と試行錯誤の延長線上にある、慎重な工夫が施されています。
当時の週刊誌には、「《喝采》を院展に出品した74歳の老画伯」と大きく紹介され、ついにはテレビのワイドショーに出演してちあきとの共演を果たすなど、話題になりました。

《喝采》
1973(昭和48)年
横浜美術館蔵(中島清之氏寄贈)

一見すると抽象絵画。しかし、そこに潜むのは、徹底した写実の眼。

卓越した線と箔使いで複雑な竹の葉の重なりを描き分けながら、オールオーヴァー※の抽象絵画を思わせる大画面に構成した晩年の代表作《緑扇》は、「伝統と現代の統合」を目指した清之芸術の、一つの頂点を示す作品です。葉の隙間から漏れる光の揺らめき、そして葉の陰を表すために、金、銀、プラチナ箔を見事に使い分け、伝統的な截金(きりかね)技法のように丹念に貼りこんでいます。二十代の頃から半世紀に渡って構想を温め、各地の竹藪の観察と写生を続けてきたことが、清之の日記やスケッチブックに記されています。
※1940年代後半にアメリカで生まれた抽象表現主義の特徴である、
 画面全体を均質な色彩や線で一面に覆った表現。

《緑扇》1975(昭和50)年 横浜美術館蔵


● 中島千波の父

中島清之の芸術への情熱は、子息たちへも受け継がれました。長男は美術家の中島けいきょう、次男は美術評論家の日夏露彦、三男は、「花の画家」として知られる日本画家・中島千波です。父と同じ芸術の道を進んだ子息らにとって、いつもみずみずしい感性と探究心にあふれた清之は、「師」というよりも、互いに養分を吸収し、刺激し合う存在であったといいます。
中島千波:父への想い出

千波が語る“父・清之”

「[僕が]学生から絵描きとしてはよちよち歩きにすぎない二、三十代の頃だから技術的には大したことはないんだけれども、それでも[表現方法の]影響というのは相当あったんじゃないかな。[父にとって]子供の若さを精力剤として新しいことをやろうということはあったと思う。」
(中島千波氏談、「息子が語る中島清之論」『三彩』1993年3月号より)

● 片岡球子の師

中島清之を生涯の師として慕ったのが、6歳年下の片岡球子です。北海道から上京し、当時帝展に出品し続けるも落選する球子は、教師の職を得た横浜で清之と出会い、院展出品を目指すようになりました。球子は後に、「展覧会の当落など気にせず、好きな絵を追求すれば良いじゃないか」という清之の言葉に、目から鱗が落ちるような思いがした、と語っています。二人は1952(昭和27)年に同時に院展の同人となり、その交友は清之の最期まで続きました。

先達としての清之

清之が描いたスケッチ「片岡先生」
1952(昭和27)年

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