【特集展示】斉藤義重 横浜に住んだ前衛美術の師
展示風景

展示風景

 日本における前衛美術の草分けのひとり、斎藤義重[さいとう・よししげ](1904-2001)は1961年(昭和36)、横浜にアトリエを構え、2001年(平成13)に97歳で亡くなるまで横浜に居住しました。横浜美術館では、1983年(昭和58)以来、11点の斎藤作品を収集してきました。また1993年(平成5)には「斎藤義重による斎藤義重展 時空の木―Time・Space, Wood-」を開催しました。今回は、10点をまとめて展示します。
 斎藤は、中学時代よりセザンヌやゴッホらの作品に親しみ、油彩で風景画や人物画を描きました。しかし、1920年(大正9)に東京で開催されたロシア未来派の亡命作家たちの展覧会場で、彼らが作品に加筆する姿を目撃し、あたかも「文章を書くような」描き方に強い衝撃を受けます。印象派的な傾向の強い当時の美術団体にはなじめず、絵画表現の限界を感じて、文筆活動に傾斜する時期もありました。やがてロシア構成主義やドイツのダダイズムの作品を知り、既成概念に捉われずに様々な素材を用いて制作するようになります。それは、《トロウッド》や《カラカラ》のような半立体的な作品へとつながっていきました。1938年(昭和13)、二科会で前衛的な作品を発表していた作家たちとともに「二科九室会」の結成に参加。翌年には福沢一郎[ふくざわ・いちろう]が主唱する前衛美術団体「美術文化協会」に加わりますが、斎藤はそこでの主流であったシュルレアリスムに傾倒することなく、黒の合板を重ねたレリーフ《ゼロイスト》のような抽象作品を制作しました。
戦後、1957年(昭和32)の『日本国際美術展』におけるK氏賞受賞が契機となり、斎藤は国内外で高い評価を受けるようになりました。1960年(昭和35)から’64年(昭和39)にかけて電動ドリルを用いて油絵具で着色した合板に点や線を直接刻み込む「ドリルワーク」を展開します。しかしその後は、そうした落書きのような線条はあまり見られなくなります。ラッカー塗装された合板から形を切り出したり、曲げたりして構成された《クレーン》や《ウェイヴ》のような作品からは、筆致や量塊といった作家の痕跡を受け止める要素が一切排除されています。絵画でも彫刻でもない造形によって、自己表現とは隔絶された美術を実現しようとした斎藤の一貫した姿勢は、次世代の作家たちの強い共感を呼び覚ましました。斎藤が約10年にわたり教鞭を執った多摩美術大学の研究室からは、関根伸夫[せきね・のぶお]、菅木志雄[すが・きしお]や小清水漸[こしみず・すすむ]など「もの派」を代表する作家たちが輩出しました。