私たちは、写真は厳然たる事実をうつしているはずと信じています。しかし、そこに付されたタイトルや解説によって、それがまったく異なる意味をもつイメージに変わることがしばしばあります。風景写真も、場所を重視すればするほど、地名が喚起する特定の意味や歴史的文脈に回収されてしまう危険をはらんでいます。
情報操作や、デジタル技術による画像処理が日常的におこなわれている今日、特定の場所を意識した風景にこだわる作家がいる一方、作品に別の意味が付与されることを回避し、あえて匿名の風景を撮りつづける作家もいます。ここでは4人の日本の写真家をとおして、現代の風景写真の多様性を紹介します。
「長崎」シリーズ より
昭和30-47年
ゼラチン・シルバー・プリント
原田久美子氏寄贈
HARADA Masamichi (1931-1999)
From the Series "Nagasaki"
1955-72
Gelatin-silver print
Gift from Mrs. Harada Kumiko
原田正路[はらだ・まさみち]の「長崎」は、当時くらしていた身近な場所を撮影した連作ですが、のちに『世界史の中の長崎』と題した本を刊行するように、その視線は、海外への窓口の役割を担いつづけ、広島とならぶ被爆地として知られる海港都市を、世界と歴史のなかに位置づけようとしています。
石内都[いしうち・みやこ]の「絶唱・横須賀ストーリー」は、少女時代を過ごした故郷を題材とした自伝的作品です。米軍が駐留する混沌とした横須賀を、彼女はある種の「傷を受けた町」と語っています。そういう場に立ち戻り、自身の記憶と正面から対峙しようとする姿勢は、時や記憶を主要なテーマに展開する後の制作に連続しており、まさしく彼女の原点をなしています。
金村修[かねむら・おさむ]の「Keihin Machine Soul」は、「京浜」の名をタイトルに入れながらもその地に縛られず、猥雑な都市の情景を撮り集めています。あらゆる事物がくっきりとした輪郭をもって氾濫する画面は、特定の中心をもたず、内面や感情といった要素を徹底的に排除して、どこまでもクールです。
磯田智子[いそだ・ともこ]の「無題」は、ありふれた住宅街の片隅を大胆な構図で切り取っています。人びとが住まう区画なのにその影のまったく見えない風景は、恐ろしいほど静謐かつ無機質です。日常の一角が未知の構造物に変貌したような作品は、既存の風景写真に収まらない世界観を提示しています。
無題
平成11年
ゼラチン・シルバー・プリント
磯田智子氏寄贈
ISODA Tomoko (born in 1976)
Untitled
1999
Gelatin-silver print
Gift from Ms. Isoda Tomoko