「わたし」との対峙-展開するセルフ・イメージ

不穏な表情で通りをふり返る女。サスペンス映画の一場面と見まごう《無題のフィルム・スティル No.23》の被写体は、実は作家本人です。ありきたりの安っぽい映画を仮想し、そのヒロインに自身をなぞらえることで、シンディ・シャーマンは大衆文化のなかで生産・消費される女のイメージを告発しています。しかしそこには、みずからが女であることへの、怖れとも哀しみともつかない感情もうかがえます。同じく女優に扮したり、名作と呼ばれる絵画に自分を侵入させることで、特定の性をもつ「わたし」、東洋人である「わたし」、美術家である「わたし」との対話を繰り返す森村泰昌[もりむら・やすまさ]の作品は、固定された存在に縛られることなく、自在に変幻しうる「わたし」の可能性を示しています。

石原友明[いしはら・ともあき]の《無題、1986》では、分割してプリントされた作家の身体が奇妙に引き伸ばされながら再び組みあげられています。撮る者自身が撮られ、解体する者自身が解体されるその表現は、自己存在のよるべなさを造形化したようです。ルーカス・サマラスのセルフ・ポートレイトの反復は、自分というものを探求せずにはいられない人間の性[さが]、その結果の自己像を見てほしいという欲求、それでいて見知らぬだれかの視線にさらされることへの不安など、複雑な心情を感じさせます。

見る側の身体感覚にダイレクトに訴えかける、強烈な「わたし」との対峙。写真というメディアは、セルフ・イメージのあり方に大きな展開をもたらしています。

森村泰昌(1951年生まれ)
《セルフポートレート(女優)/ ハラ・セツコとしての私》
平成8年
エクタカラー・ウルトラⅡ
森村泰昌氏寄贈
MORIMURA Yasumasa (born in 1951)
Self-portrait (Actress)/ After Hara Setsuko
1996
ektacolor ultraⅡ
gift from Mr. Morimura Yasumasa

森村泰昌《セルフポートレート(女優)/ ハラ・セツコとしての私》