展覧会について

本展のみどころ

1.腐蝕の魔術師、駒井の幅広い表現を一望

銅版画と一口に言っても、その技法はさまざまです。駒井は多彩な銅版技法を駆使し、微妙な諧調の面と鋭い線、緻密な描写と幻想的な抽象形態、ストイックなモノクロームと色彩あふれる画面など、一見相反するような作風を同時並行で追求しながら、幅広い表現を生み出しました。他に追随を許さない駒井独自の腐蝕(ふしょく)により生み出された、紙の上に匂い立つような豊かな表情。それは、デジタル時代を迎えた今だからこそ、私たちの心を揺さぶります。
本展では、日本における現代銅版画のパイオニアである駒井作品の展開を初期から晩年まで6章構成でたどります。

2.美術・音楽・文学の交差点

駒井は1950年代にインターメディアな前衛芸術集団「実験工房」に参加し、作曲家・湯浅譲二との共同制作によるオートスライドや、立体オブジェの制作を行っていました。また、50年代後半から大岡信や安東次男(あんどうつぐお)ら、多くの詩人たちと、詩画集の制作や詩集の装幀などのコラボレーションを実現しました。
本展は、駒井のジャンルを超えた表現に着目し、文学や音楽との領域横断的な特質を持つ、駒井芸術の魅力にも迫ります。

3.美術評論家としての横顔、そして西洋美術と駒井作品の競演

駒井は、銅版画はもちろん、西洋美術史の幅広い知識を持っていました。ルドンをはじめ、クレーやミロなど西洋画家たちの作品が駒井の創作へ与えた影響も少なくありません。また彼は、そうした敬愛する芸術家たちについての評論を美術雑誌などへ数多く寄稿しており、そこからは駒井自身の芸術観を読み取ることができます。
本展では、駒井の文章を紐解きながら、駒井が敬愛した西洋画家たちの作品と、駒井作品を包括的に並べる初の試みです。

年譜

駒井哲郎(こまいてつろう)
Komai Tetsuro
1967年12月
撮影:河口清巳

1920年(大正9)
東京市日本橋区(現・東京都中央区)に生まれる。
1934年(昭和9)
月刊誌『エッチング』第26号を通じ、初めて銅版画を知る。
1942年(昭和17)
東京美術学校(現・東京藝術大学)を卒業。
1947年(昭和22)
木版画家・恩地孝四郎を中心とした版画研究会「一木会(いちもくかい)」の同人となる。
1950年(昭和25)
春陽会第27回展に出品し、春陽会賞受賞。洋画家・岡鹿之助に激賞される。
1951年(昭和26)
第1回サンパウロ・ビエンナーレにて木版画家・斎藤清とともに受賞。
1952年(昭和27)
第2回白と黒国際版画展(ルガノ国際版画ビエンナーレ)にて、棟方志功とともに受賞。「実験工房」に参加。
1954~55年(昭和29-30)
フランスへ留学し、銅版画家・長谷川潔を訪ねる。
1959年(昭和34)
東京藝術大学非常勤講師になる。
1972年(昭和47)
東京藝術大学教授に就任。
1974年(昭和49)
解説執筆と編集を担当した『ルドン 素描と版画』(岩崎美術社)が刊行される。
1976年(昭和51)
舌癌肺転移により死去。(享年56歳)

展覧会の構成

第1章 銅版画との出会い

駒井哲郎は1934年、14歳の時、父親に送られてきた月刊誌『エッチング』を偶然目にし、はじめて銅版画を知りました。自身が後に回想するように、「他のジャンルの絵も描かないで、銅版画を始めることによって美術の世界に入った」駒井は、西田武雄が設立した日本エッチング研究所に通い、技術の手ほどきを受けます。また研究所に隣接する画廊において西洋のオリジナルの銅版画を間近に見る機会にも恵まれ、彼はたちまち銅版画の奥深い世界に魅了されました。
本章では、最初期の駒井作品とともに、彼が感化されたレンブラントやホイッスラーらの作品、西田のもとで学んだ日本人作家の作品を展示します。

主な関連作家:
レンブラント・ファン・レイン/シャルル・メリヨン/ジェームス・マクニール・ホイッスラー/西田武雄/須田國太郎/関野凖一郎

駒井哲郎《河岸》1941年、エッチング、23.2×36.1㎝
東京都現代美術館
©Yoshiko Komai 2018/JAA1800116

ジェームス・マクニール・ホイッスラー《ブラック・ライオン埠頭》1859(1861/62)年、エッチング、15.2×22.8㎝
町田市立国際版画美術館

第2章 戦後美術の幕開けとともに

駒井は1947年に、日本の抽象表現を先導した木版画家・恩地孝四郎が主宰した版画研究会「一木会(いちもくかい)」の同人となりました。木版を中心とした一木会においても、駒井は銅版画に取り組み、線を基調とするエッチングとは異なる、面の表現に適した新たな技法に挑戦します。また文学に親しむことで、作品の主題も、写実的な風景から、内的な心象風景へと一転します。技法研究の成果が、新たな主題と結びつくことで花開いた駒井の作品は、50年に春陽会展で受賞、翌年には第1回サンパウロ・ビエンナーレで受賞するなど、一躍脚光を浴びました。
本章では駒井による初期の代表作とともに、師である恩地や岡鹿之助、また同世代の版画家、清宮質文(せいみやなおぶみ)や浜田知明(はまだちめい)らの作品を紹介します。

主な関連作家:
オディロン・ルドン/恩地孝四郎/岡鹿之助/清宮質文/浜田知明

駒井哲郎《束の間の幻影》1951年、サンドペーパーによるエッチング、18×28.9㎝
横浜美術館(北岡文雄氏寄贈)
©Yoshiko Komai 2018/JAA1800116

恩地孝四郎《Lyrique No.22 かけらになっている幸福》1952年、マルチブロック、71.8×62.6cm
横浜美術館

第3章 前衛芸術との交差

駒井は、1950年に詩人であり美術評論家の瀧口修造と出会います。以来、瀧口は駒井のよき理解者となり、現代美術としての銅版画の可能性に期待を寄せました。1951年に活動を始めた「実験工房」の名付け親であった瀧口は、翌年にそのメンバーとして駒井を推薦します。駒井は、1953年の「実験工房第5回発表会」にて作曲家の湯浅譲二との共作でオートスライド「レスピューグ」を上映、また『アサヒグラフ』のコラム「APN」のために、立体オブジェを制作しました。
この章では、「実験工房」における駒井の活動とともに、北代省三(きただいしょうぞう)や山口勝弘など他の造形メンバーの同時代作品を紹介し、インターメディアな運動における駒井の立ち位置を検証します。

主な関連作家:
パウル・クレー/北代省三/山口勝弘/湯浅譲二

実験工房とは

1951年から57年頃にかけて音楽、美術、文学の枠を超えて若き芸術家たちが創造精神の詩的実験を展開した総合芸術グループ。顧問格であった瀧口修造のもとに、造形作家、作曲家、ピアニスト、詩人、照明家、エンジニアといった多彩なメンバー14名が集い活動した。

駒井哲郎《「レスピューグ」原画》1953年、グアッシュ、パステル、紙、12.6×16.4㎝
世田谷美術館(福原義春コレクション)
©Yoshiko Komai 2018/JAA1800116

第4章 フランス滞在と「廃墟」からの再生

1954年、横浜港よりフランスへ出発した駒井は、パリに到着するとまもなく、憧れの銅版画家・長谷川潔を訪問します。長谷川の勧めを受けて、駒井はフランス国立美術学校に入学し、フランスでは銅版画の最も基本的な技法とされるエングレーヴィングの習得を目指します。滞仏中に駒井は、フランスにおける文化芸術の豊かさや伝統の重みに圧倒され、自信喪失に陥ります。しかし約一年半の滞在を終えて帰国後しばらくし、小山正孝による詩集のフロントピースとして《樹木  ルドンの素描による》を創作したことが転機となり、再生への一歩を踏み出してゆきます。
本章では、駒井の滞欧作とともに、立ち直りの契機をもたらした一連の樹木のシリーズを展示します。

主な関連作家:
ロドルフ・ブレダン/オディロン・ルドン/長谷川潔

駒井哲郎《樹木  ルドンの素描による》1956年、エッチング、24.5×20㎝
練馬区立美術館(粟津則雄旧蔵)
©Yoshiko Komai 2018/JAA1800116

長谷川潔《林檎樹》1956年、エッチング、35×25.3㎝
横浜美術館

第5章 詩とイメージの競演

1958年、駒井は「書肆ユリイカ10周年記念詩画展」に、詩人・大岡信の詩に寄せた版画を出品しました。これを機に大岡と親交を深めた駒井は、その2か月後には詩人・安東次男に出会いました。安東と駒井は、詩画集『からんどりえ』、『人それを呼んで反歌という』を続けて制作し、お互いに刺激し合いながら充実した創作を行います。以降晩年まで、詩集に寄せた挿画や装幀など詩人との共作は、駒井にとって重要な制作の場となりました。
この章では、駒井が手掛けた詩画集や詩集を中心とし、詩人たちが愛蔵した駒井作品や、詩画集から展開した作品を展示し、言葉とイメージの競演をご覧いただきます。

主な関連作家:
大岡信/安東次男/粟津則雄/福永武彦/埴谷雄高/金子光晴/谷川俊太郎

駒井哲郎《人それを呼んで反歌という(『人それを呼んで反歌という』より)》1965年、
サンドペーパーによるエッチング、33×50.3㎝
世田谷美術館(福原義春コレクション)
©Yoshiko Komai 2018/JAA1800116

駒井哲郎《挿画2(『よごれてゐない一日』より)》1970年、ディープ・エッチ、凹凸版刷(1版多色)、21.1×23.8㎝
世田谷美術館(福原義春コレクション)
©Yoshiko Komai 2018/JAA1800116

第6章 色彩への憧憬

生前の展覧会や自選版画集では主にモノクロ版画を発表し、白と黒の造形をストイックに追求した駒井ですが、一方で1950年代より色刷りの版画も手掛けています。特に1970年代になると多色刷りのモノタイプを多数制作し、優れた色彩感覚を遺憾なく発揮しました。そこには、駒井の言葉を借りれば「晩年になって燦爛(さくらん)とした色彩の世界を油彩やパステルで実現した」ルドンへの深い敬愛が感じられますが、モノタイプという版を介した表現には、版画に対する駒井の強いこだわりも表れています。
この章では、ルドン、クレー、ミロ、エルンストといった駒井が愛した西洋画家たちと、駒井による色彩作品の響き合いをお楽しみいただきます。

主な関連作家:
オディロン・ルドン/パウル・クレー/ジョアン・ミロ/マックス・エルンスト

駒井哲郎《黄色い家》1960年、ディープ・エッチ、アクアチント(1版多色)、21.1×16.1㎝
世田谷美術館(福原義春コレクション)
©Yoshiko Komai 2018/JAA1800116

パウル・クレー《大聖堂(東方風の)》1932年、ガーゼ、油彩、厚紙に貼付し木枠に釘づけ、20×52㎝
アサヒビール株式会社

オディロン・ルドン《二人の踊女》制作年不詳、油彩、カンヴァス、44.5×30㎝
横浜美術館(坂田武雄氏寄贈)

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