展示構成

  • 第1章
  • 第2章
  • 第3章

第1章 東西文化の交差点 YOKOHAMA

1859(安政6)年の開港以来、横浜は交易の拠点であるのみならず、東西の文化や情報が行き来する玄関口の役割を担いました。開港場には外国人居留地が設けられ、海岸近くには貿易のための商館やホテルが立ち並び、外国人向けの土産物屋が軒を連ねるようになりました。また、進取の気風に富んだ実業家や、優れた工芸技術を有する職人たちが、日本各地から横浜に集まりました。日本独自の意匠や繊細な技術と西洋人の嗜好を融合させた、真葛焼や横浜焼などの陶磁器、芝山細工の家具、羽二重のドレスなどが横浜の地で作られ、輸出されていきます。

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椎野正兵衛商店「室内着」1875(明治8)年頃 京都服飾文化研究財団蔵 林雅之撮影
絹羽二重に手刺しでキルティングを施した室内着。横浜本町の椎野正兵衛商店から輸出された。

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初代 宮川香山「高浮彫桜ニ群鳩大花瓶」明治前期 陶磁器、一対(各)56.5×26.0cm
田邊哲人コレクション(神奈川県立歴史博物館寄託)

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歌川(五雲亭)貞秀「横浜交易西洋人荷物運送之図」1861(文久元)年 多色木版(大判錦絵五枚続)37.0×122.8cm 齋藤龍コレクション

第2章 日本 洋装の受容と広がり

明治維新後、日本政府は西洋の国々に倣った近代国家をめざして西洋文化を積極的に導入し、人々の生活は大きく変化しました。皇室や華族が洋装を取り入れ、鹿鳴館では西洋風の舞踏会や音楽会が数多く開かれました。軍服や制服で早くから洋服を着用した男性に対し、女性は大正期までは和装が主流でしたが、髪飾りや指輪などの小物で徐々に洋装を取り入れていきました。画家や版画家、写真家たちはそのような洋装の女性たちをいち早く取り上げました。楊洲周延や月岡芳年は、文明開化の時代を生きる洋装の女性たちを当世風俗として錦絵に描きました。美人画で知られる鏑木清方も、当時流行した新しい洋風のアクセサリーを画中に細やかに描き込んでいます。

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「昭憲皇太后着用大礼服」1910年頃(明治末期)共立女子大学博物館蔵

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月岡芳年「風俗三十二相 遊歩がしたさう 明治年間 妻君之風俗」1888(明治21)年 36.2×25.3cm 京都服飾文化研究財団蔵

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天賞堂(イギリス製)「ペンダント付きネックレス」明治後期 プラチナ、真珠、ダイヤモンド
ペンダントh6.0cm、チェーンl.44.0cm
日本宝飾クラフト学院蔵

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山本芳翠「園田銈像」1885(明治18)年 油彩、カンヴァス 61.3×50.7cm
郡山市立美術館蔵
駐英領事・園田孝吉男爵の妻、銈(けい)の肖像。
胸元には豪奢なロケットが輝く。

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鏑木清方「嫁ぐ人」1907(明治40)絹本着色、一幅 182.8×115.4cm
鎌倉市鏑木清方記念美術館蔵
※5月20日からの展示

第3章 西洋 ジャポニスムの流行

19世紀後半、西洋では、パリやロンドンの万国博覧会に出品された日本の美術品や工芸品が注目を集め、ジャポニスムの大ブームが巻き起こりました。日本の工芸品やきものは、高級百貨店などで販売されて急速に広まり、日本の文化に新しいイメージの源泉を求めたテーブルウェアや、調度品が制作されるようになりました。ファッション界においてもジャポニスムの影響は大きく、ウォルトやシャネルをはじめとする代表的なメゾンがこぞって、日本のきものにインスピレーションを得たドレスを発表しました。絵画作品にも、きものに身を包んだ西洋女性の姿が数多く描かれました。

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シャネル「イヴニング・コート」1927年頃 京都服飾文化研究財団蔵 操上和美撮影
蒔絵のように繊細な金糸の紋織が目を奪う。

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キャロ姉妹(推定)「イヴニング・ドレス」1908年頃 京都服飾文化研究財団蔵 操上和美撮影

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ルネ・ラリック「チョーカーヘッド《菊》」1900年頃 金、エマイユ h.6.3×w.9.8cm 箱根ラリック美術館蔵 近藤正一撮影

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ロイヤル・ウースター社「伊万里写ティーセット」1881年 磁器 ティーポットh.14.0×w.18.0cm、プレートh.2.0×d.37.0cm、他三菱一号館美術館蔵

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ジャンヌ・ランヴァン「イヴニング・コート」1929年 京都服飾文化研究財団蔵 林雅之撮影