平成18年度新指定・重要文化財/エリファレット・ブラウン・ジュニア《遠藤又左衛門と従者》 特別展示

このたび、当館の収蔵品であるエリファレット・ブラウン・ジュニア(Eliphalet Brown Jr. )撮影の写真《遠藤又左衛門[えんどう・またざえもん]と従者》が、平成18年度の国の新指定・重要文化財となりました。これを記念して、本写真のレプリカ(模造品)を、関連資料とあわせて特別展示します。
《遠藤又左衛門と従者》のほか、今回、新指定の重要文化財に選ばれた写真は、《石塚官蔵[いしづか・かんぞう]と従者》(函館市寄託)、《松前勘解由[まつまえ・かげゆ]と従者》(松前町郷土資料館蔵)、《黒川嘉兵衛[くろかわ・かへえ]》(日本大学芸術学部写真学科寄託)、《田中光儀[たなか・みつよし]》(東京都写真美術館寄託)で、いずれも1853-54年(嘉永6-7)のペリー提督率いるアメリカ艦隊の日本遠征に随行した写真家・版画家のエリファレット・ブラウン・ジュニアの撮影によるダゲレオタイプ(銀板写真)です。
横浜美術館では、横浜が日本における写真発祥の地のひとつと位置づけられてきたことから、写真術のはじまりから現代に至る、体系的な写真作品の収集と展示に努めてきました。《遠藤又左衛門と従者》は、1985年3月に収集したものです。保存上の観点から展示に懸念があることから、従前よりレプリカだけを展示しています。このたびの重要文化財の新指定を機に、関係機関、研究者、他の所蔵館とも協議を重ねつつ、改めて作品の保存・修復と、調査研究に取り組みます。

ペリー提督の日本遠征について

1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリー提督率いる4隻の軍艦が、日本との和親通商を求め、浦賀沖に現れました。久里浜において浦賀奉行にフィルモア大統領の国書を渡すと、再来を約束して退去し、翌1854年2月13日(嘉永7年1月16日)軍艦7隻を率いて、江戸湾の小柴沖に投錨しました。3月8日(2月10日)横浜に上陸、応接所で幕府との交渉がはじまり、応接掛[おうせつがかり]の林大学頭[はやし・だいがくのかみ]、町奉行井戸覚弘[いど・さとひろ]、浦賀奉行伊沢政義[いざわ・まさよし]らと、数度の交渉を経て、3月31日(3月3日)に日米和親条約(神奈川条約)が調印されました。これにより、アメリカ漂流民の保護、薪水・食料・石炭の欠乏品の供給、下田・箱館(函館)両港の開港が決定されました。
日米和親条約の調印後、ペリーは下田に回航し、当時松前藩領であった箱館の視察に赴きました。そこで松前藩家老松前勘解由、用人遠藤又左衛門らと会談し、アメリカ人遊歩区域等の交渉をおこないましたが進展せず、下田に向けて箱館を離れました。
下田に戻ったペリーは、幕府側の応接掛林大学頭らと追加条約の交渉にはいり、6月20日(5月25日)に下田条約(日米和親条約附録協定)が調印されました。その内容は、開港場の使用に関する細則で、遊歩区域、休息所、物品購入方法などが規定されています。その後、琉球国中山府と琉米条約を結び、香港を経由しアメリカへ帰還しました。

遠藤又左衛門  文化10年(1813)〜慶応4年(1868)

嘉永7年(1854)、松前藩江戸藩邸用人*1の地位にあった遠藤又左衛門喜典は、おそらくはペリー艦隊出現の急使として2日後に江戸を出立し、帰藩後に「亜墨利加船応接掛[あめりかせんおうせつがかり]」の副応接役を任ぜられます。当時の松前藩は、傍系から藩主となった崇廣[たかひろ]をめぐって二派に分裂していました。遠藤は、主席応接掛を務めた松前勘解由を筆頭とする崇廣派のひとりで、応接役の決定には藩内の派閥争いも響いていたと思われます。
ペリーは日記に、遠藤は応接掛のなかでも「主導的な立場にあり、かつきわめて実務に長けた男であるらしく、しかも、われわれの見たところ、彼はどんな業務を処理するためにせよ、かつてわれわれが日本で会ったことのある人びとの誰と比べても、最も物わかりがよく、かつ最も気楽な物腰であった」*2と記しています。実際、横浜での約定に関する情報がないことを理由にアメリカ側の要求を押しとどめた外交手腕や、松前城下・箱館(函館)間を2日で往復した行動力など、緊迫する情勢下での奔走ぶりは相当なものでした。その労に対し、幕府は白銀10枚という大名の家臣にしては異例の褒賞で応えています。
しかし、そんな遠藤も、これに先立つ天保の改革期には地位も領地も没収される憂き目にあいました。また、戊辰戦争[ぼしんせんそう]の最中には開拓に揺れる蝦夷地支配を危惧する申上書をまとめており、彼の後半生は混迷する幕末の政情をそのまま反映しています。その遠藤が、藩内で起こったクーデターの刺客により江戸で殺害されるのは、奇しくも元号が明治にあらたまる直前のことでした。*3

*1 用人:家老に次ぐ役職で、庶務・会計を担当した。
*2 金井圓訳による。『ペリー日本遠征日記 新異国叢書 第II輯 1』1985年、雄松堂出版、402頁
*3 蝦夷地開拓に関する申上書および遠藤殺害のいきさつについては、以下を参照しました。
海保嶺夫「戊申内乱期における松前藩の「蝦夷地開拓」観−遠藤又左衛門の申上書を中心に−」、『北海道開拓記念館研究紀要』第11号、1983年、65-77頁

エリファレット・ブラウン・ジュニア
Eliphalet Brown Jr.  1816-1886

マサチューセッツ州ニューバリーポート生まれ。若くしてニューヨークを拠点に商業的な画家・版画家として、肖像画、海景画、歴史画を手がけます。弟ジェームズも、同地の肖像画家でしたが、兄に先んじてダゲレオタイプ(銀板写真)の技術を学びます。1846-48年に兄弟は商売上のパートナーとなり、ほどなくエリファレットは弟から、ダゲレオタイプの技法を習得したと思われます。
1852年ペリー提督に請われたブラウンは「アーティスト」として雇用され、「衛生伍長代理助手」の階級を与えられ、提督の乗船する旗艦(サスケハナ号、ポウハタン号、ミシシッピ号の各艦)で日本遠征の2年余りを過ごします。ペリーはブラウンを遠征に加える理由として、写真よりも素描や版画の技術に着目していたと考えられています。
ブラウンはこの遠征で400点以上のダゲレオタイプを制作したと主張しましたが、写真そのものは、《遠藤又左衛門と従者》を含め6点しか知られておらず、いずれも外交交渉にあたった幕府や各藩の役人の肖像です。ブラウンは、下田、箱館(函館)、琉球(沖縄)、横浜などの上陸地で人物、風景、建築を撮影しましたが、それらのダケレオタイプの一部を元に、木版画やリトグラフがつくられ、遠征の公式記録『ペリー提督日本遠征記』(1856年)に収録されました。
ブラウンは、1854年5月17日から6月3日まで(嘉永7年4月21日-5月8日)箱館に滞在し、実行寺[じつぎょうじ]にスタジオを構えていました。遠藤又左衛門らが撮影されたのはこの実行寺であったと思われます。遠征に通訳として加わったウィリアムズの日記によれば、遠藤に写真が渡されたのは5月24日とされています。しかしこの写真の添え状には、英語で「M・C・ペリー提督より贈呈、1854年6月1日、箱館・蝦夷にて」とあり、日本語の「甲寅五月初六日」もそれを裏付けています。
ブラウンは遠征から帰米すると、過去の自作を管理することを除いて、写真や版画の制作から離れ、海軍に留まります。1864年衛生伍長代理、地中海艦隊提督秘書を歴任、1875年退役し、1886年にニューヨークで亡くなりました。

*主に以下の文献を参照しました。

  • 洞富雄訳『ペリー日本遠征随行記 新異国叢書8』1970年、雄松堂出版
  • 金井園訳『ペリー日本遠征日記 新異国叢書 第II 輯1』1985年、雄松堂出版
  • Bruce T. Erickson, "Eliphalet M. Brown Jr. : An Early Expedition Photographer", The Daguerreian Annual 1990, pp.145-156
  • Floyd Rinhart & Marion Rinhart, The American daguerreotype, The University of Georgia Press, Athens, 1981, pp. 369-372, 384

エリファレット・ブラウン・ジュニア《遠藤又左衛門と従者》エリファレット・ブラウン・ジュニア
(1816-1886)
《遠藤又左衛門と従者》
安政元年
ダゲレオタイプ
Eliphalet BROWN Jr.
(1816-1886)
Endo Matazaemon and his Retainers
1854
daguerreotype


出品リスト

平成18年度新指定・重要文化財
作家名 作品名 制作年 技法・材質 備考
エリファレット・ブラウン・ジュニア 遠藤又左衛門と従者 1854
(安政元)
ダゲレオタイプ
(レプリカ)
 
フランシス・L・ホークス編   『ペルリ提督日本遠征記』 1856
(安政3)