下村観山(本名:晴三郎)の絵画修業は、明治15年、9歳の頃に始まりました。 前年に一家で和歌山から東京に移住した観山は、祖父の友人の藤島常興に絵の手ほどきを受けるようになります。 そして常興は観山を、最後の狩野派の絵師にして最初の「日本画家」といわれた狩野芳崖に託しました。芳崖は観山の画才を認め、「北心斎東秀」の号を与えたとされます。さらに明治19年、芳崖は同門の盟友・橋本雅邦に観山を紹介し、師事させます。この年、お雇い外国人教師として来日し、日本美術の研究につとめたアーネスト・フェノロサらが主宰する「鑑画会」に作品を出品すると「下村晴三郎氏は年齢十三歳、橋本氏の門弟なるが、その揮毫の雪景の山水は恰も老練家の筆に成りたるが如く、実に後世恐るべしとて、見る人の舌を振へり」との新聞評を得て、その才能は早くも話題を呼びました。ここでは、「北心斎」時代の観山の研鑚のさまを伝える初期の作品や画稿を紹介します。
≪騎虎鐘馗≫ 明治17年(1884)
紙本着色、軸 59.0×38.5cm
横浜美術館蔵
通期展示
≪鷹之図≫ 明治19年(1886)
紙本墨画、軸 66.0×50.0㎝
永青文庫蔵
展示期間:後期
明治22年、東京美術学校(以下「美校」)が開校すると、観山は、横山大観らとともに第1期生として入学し、翌年2代目校長として着任した岡倉天心の薫陶を受けることとなりました。「観山」の画号は、美校入学の頃に使い始めたとされています。美校では、再び狩野派の筆法の修練から始めることとなりましたが、すでに一かどの画家であった観山は、やまと絵の線や色彩の研究にも大いに励み、調和を重んじた穏やかな色彩と卓抜した線描による、独自の画風を作り出していきました。明治27年に卒業するとただちに助教授に抜擢され、後進の指導に当たりながら、自身も作画に励みました。明治29年、天心が「日本絵画協会」を組織すると、観山は大観や1年後輩の菱田春草とともに美校卒業組として加わり、めざましい活躍を示しました。本章の前半では、美校時代の課題制作や校内競技会の出品作をはじめ、卒業制作の《熊野観花》、さらに助教授時代に日本絵画協会第1回絵画共進会に出品した《仏誕》などを紹介します。
≪辻説法≫ 明治25年(1892) 紙本着色、額 44.7×62.8㎝
横浜美術館蔵
展示期間:2013/12/7-2014/1/14
≪仏誕≫ 明治29年(1896)
絹本着色、軸 203.0×143.5㎝
東京藝術大学蔵
展示期間:2014/1/15-2/11
≪熊野観花≫ 明治27年(1894) 絹本着色、額 61.3×119.7㎝
東京藝術大学蔵
展示期間:2014/1/15-2/11
明治31年、美校内部の確執に端を発し、天心は校長の職を追われることとなりました。観山は天心に殉じて、大観や春草ら他の教職員とともに美校を去り、天心や、同志とともに、「日本美術院」を設立しました。観山は、日本美術院が日本絵画協会との連合展として開催した第1回日本美術院展に、釈迦が
荼毘に付される場面を描いた《闍維》を出品しました。《闍維》は、大観の《屈原》とともに最高賞である銀賞を受賞し、フェノロサはこれを「外国と日本との古格を離れ、無限の力と創意とをもっていまだ抵触されたるなき画題を捉えた傑作」と評して、新しい日本画の萌芽を絶賛しました。初期の日本美術院では、空気や光線などを表すため、輪郭線を用いずにぼかしを伴う色面描写を用いた「朦朧体」が試行され、美術界に賛否両論を巻き起こしました。その中にあって観山は、《元禄美人図》のような古典的な傾向と、《春日野》のように朦朧体に拠った傾向に同時に取り組み、堅実な歩みを進めました。
≪闍維≫ 明治31年(1898) 絹本着色、額 143.7×256.0㎝ 横浜美術館蔵
通期展示
≪元禄美人図(三味線図)≫ 明治32年(1899)
紙本着色、二曲屏風一双の右隻
154.3×174.4㎝ 石水博物館蔵
通期展示
春日野は、現在の奈良公園一帯の台地の名称。その中にある春日大社の境内は神鹿が群れ、山中に藤が自生することで昔からその名を知られる。この作品では、松葉と藤の花房のもとに憩う3頭の鹿が描かれる。観山は、当時、横山大観や菱田春草とともに、没線主彩描法/朦朧体に取り組んでおり、ここでもその技法を基本としつつ、鹿の毛並みや松葉、芝の描写には、細やかな線描を駆使している。
≪春日野≫ 明治33年(1900)
絹本着色、軸 162.0×114.0㎝
横浜美術館蔵
展示期間:2013/12/7-2014/1/14
明治34年、観山は美校に教授として復帰しました。その2年後、文部省の命により英国に渡り、色彩の研究を第一の目的として、西洋画の研究や模写を行いました。大英博物館にある模写を写したとされる《椅子の聖母》や、英国留学のあと欧州を巡遊した際にウフィーツィ美術館で写したものと思われる《まひわの聖母》といったラファエロの模写は、板に油彩で描かれた原画の柔らかな明暗を、水彩によって見事に絹に写し、観山の技術の確かさを示しています。
一方、日本美術院の活動は次第に停滞し、明治36年をもって経済的に立ちゆかなくなり、観山の帰国翌年の明治39年には、天心の別荘のあった茨城県の五浦に拠点を移すこととなりました。観山は、大観、春草、木村武山とともに、一家を伴って五浦に移住しました。明治40年、文部省美術展覧会(文展)が設立されると、審査員として《木の間の秋》を出品、五浦の雑木林に取材したという、同作の確かな自然描写と琳派を思わせる装飾性は、高い評価を得ました。また、文展の開催に伴って、新派の「国画玉成会」が天心を会長として設立されると、明治41年の第1回展に《大原御幸》を、翌年の研究会展に《小倉山》を出品し、古典研究の成果を余すところなく発揮しました。
≪ラファエロ作「椅子の聖母」(模写)≫
明治37年(1904) 絹本着色、額 56.0×54.5㎝
横浜美術館蔵
通期展示
≪木の間の秋≫ 明治40年(1907) 紙本着色、二曲屏風一双
各169.5×170.0㎝
東京国立近代美術館蔵
展示期間:後期
≪小倉山≫ 明治42年(1909) 絹本着色、六曲屏風一双 各157.0×333.5㎝ 横浜美術館蔵 通期展示
平安時代中期の公卿・政治家であった藤原忠平が、『百人一首』に撰せられた和歌「をぐら山峰のもみぢ葉心あらば今ひとたびのみゆき待たなむ」(小倉山の紅葉よ、もし心があるならば、今一度行幸があるまで散らずに待っていてほしい)の歌想を得る様が描かれる。「堀塗り」「付け立て」「垂らしこみ」といったやまと絵の技巧が駆使され、琳派風の鮮やかな意匠性が目を引く。
大正2年の末、観山は天心を通じて知遇を得た実業家・原三溪の招きにより、横浜本牧の和田山に新邸を設け、家族とともに移りました。以降、三溪の支援のもとで制作をするようになり、二人の交流は観山が亡くなるまで続きました。この年、ボストン美術館の収集活動を託されていた天心が、健康状態の悪化により帰国し、療養中の赤倉の山荘で亡くなりました。天心の臨終に際し、観山と大観は、有名無実化していた日本美術院の再興をはかります。観山は文展審査員を辞して、在野を貫く決意を示しました。再興日本美術院の創立同人には、他に木村武山、安田靫彦、今村紫紅、そして洋画家の小杉未醒(放菴)がいました。翌年、天心の一周忌を期して開院式が行われ、第1 回再興院展が開催されました。観山は《白狐》(第1回展)、《弱法師》(第2回展)、《春雨》(第3回展)といった大作で、茫漠とした空間を特徴とする高い精神性に満ちた画面を構成し、自己の芸術の頂点を極めました。
≪白狐≫ 大正3年(1914) 紙本着色、二曲屏風一双 各186.8×208.4㎝
東京国立博物館蔵 TNM Image Archives
展示期間:2013/12/7-12/20
≪弱法師≫ 大正4年(1915) 絹本金地着色、六曲屏風一双 各187.5×407.0㎝ 東京国立博物館蔵 TNM Image Archives
展示期間:2013/12/7-12/20
謡曲『弱法師』を主題にする。偽りの告げ口により父左衛門尉通俊にすてられ、盲目となって諸国を巡る俊徳丸は、人々から弱法師と呼ばれた。この作品では、旧暦如月時正の日(彼岸の中日)、摂津の四天王寺で、父と再会する機縁となった日想観(沈む太陽を拝し、極楽浄土を観想すること)を行う俊徳丸の姿が描かれる。
≪酔李白≫ 大正7年(1918)
絹本着色、軸 151.0×69.0㎝
北野美術館蔵
通期展示
≪魚籃観音≫ 昭和3年(1928)
絹本着色、軸(三幅対)
中幅158.0×55.7 左右各158.5×32.3㎝
西中山 妙福寺蔵
通期展示
魚籃観音は、観音菩薩が三十三の姿に変化するうちの一つとして、古来仏画の主題として多く描かれた。深い朱色の衣を身に着け、鯉の背に乗る姿か、鯉の魚籠を提げた姿で通常描かれる。ここでは、三人の男と犬を周到に配した三幅対に仕立てている。留学中に模写したレオナルド・ダ・ヴィンチの《モナ・リザ》の相貌を下敷きとする魚籃観音の顔が、発表当時賛否を問われた作品である。
≪松二鶴≫ 昭和2年(1927) 絹本着色、六曲屏風一双 各177.5×375.0㎝ 横浜美術館蔵
展示期間:2013/12/21-2014/2/11
老いた赤松の大木のもとに、真鶴二羽とその幼鳥三羽が憩う様が描かれている。齢千年に達するという鶴は、様々な伝説や故事を持つ松の古木に配されて古くから描かれ、「一品大夫」(一品が鶴を、大夫が松を意味する)という画題でも親しまれてきた。観山は、画面に幼鳥と松笠(松の実)を描き加えることによって、長寿とともに子孫繁栄を寓意する吉祥図に仕立てている。