日本の洋画:開港から昭和初期まで
展示風景

展示風景

 横浜は、1859年(安政6)安政五箇国条約に基づき、開港場のひとつとなりました。新たに開設された外国人居留地には、国内外から若い画家たちが集まり、日本人が油彩画をはじめとする西洋の表現技法を外国人画家から直接学ぶ拠点ともなりました。

  横浜開港と同じ年、エドガー・ドガ(1834-1917)は、3年にわたるイタリア滞在を終え、パリに戻りました。19世紀後半のパリでは、前衛的な芸術家たちが、西洋の美術とはまったく異なる風土から生まれた日本の美術に強い関心を示しました。そしてドガも、多くの日本の浮世絵版画を収集したことが知られています。

 ここでは、「ドガ展」開催に合わせ、ドガが生きた時代を中心とする日本の洋画をご紹介します。イギリス人のチャールズ・ワーグマンは、『イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ』紙の特派員兼画家として来日し、外国人の視点から日本の風俗や風景を描きました。彼の下には、五姓田義松 [ごせいだ・よしまつ]や高橋由一 [たかはし・ゆいち]らが相次いで入門し、本格的な油彩画の技術を学びます。また、義松やその父芳柳 [ほうりゅう]が横浜で営んだ工房からは、義松の妹の渡辺幽香 [わたなべ・ゆうこう]、そして彼女の夫となる渡辺文三郎 [わたなべ・ぶんざぶろう]など、日本における洋画黎明期の代表的な画家が輩出しました。

 明治末に顕著となった個人主義と大正デモクラシーの風潮のもとに発刊された文芸雑誌『白樺』は、セザンヌやロダンをはじめとしたヨーロッパの美術を紹介し、岸田劉生 [きしだ・りゅうせい]や木村荘八[きむら・しょうはち]ら当時の若い画家たちの強い共感を呼びました。大正から昭和に入ると、佐伯祐三 [さえき・ゆうぞう]や里見勝蔵 [さとみ・かつぞう]のようにフランスで学ぶ画家たちが増えてゆきました。また、清水登之 [しみず・とし]や野田英夫[のだ・ひでお]のように、アメリカで活躍する画家もあらわれます。

 日本には開港とともに油彩画の技術が輸入されましたが、それからおよそ60年の時を経てドガが亡くなる頃には、パリやアメリカのアートシーンに名を馳せる日本人画家が登場する時代を迎えました。横浜開港から昭和初期における、日本洋画の表現の広がりをお楽しみください。