横浜開港から現代まで:洋画と立体作品
展示風景

展示風景

 横浜は、安政五箇国条約に基づき、1859年(安政6)開港場のひとつとなりました。外国人居留地は、美術においても油彩画をはじめとした新たな表現技法を来日画家から学ぶ場となりました。ここでは、横浜開港から現代までの洋画と立体作品をご紹介します。
 イギリス人のチャールズ・ワーグマンは、『イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ』紙の特派員兼画家として来日し、外国人の視点から日本の風俗や風景を描きました。彼の下には、五姓田義松(ごせだ・よしまつ)や高橋由一(たかはし・ゆいち)らが相次いで入門し、本格的な油彩画の技術を学びます。また、義松やその父芳柳(ほうりゅう)が横浜で営んだ工房からは、義松の妹の渡辺幽香(わたなべ・ゆうこう)、そして彼女の夫となる渡辺文三郎(わたなべ・ぶんざぶろう)など、日本における洋画黎明期の代表的な画家が輩出しました。
 明治末に顕著となった個人主義と大正デモクラシーの風潮のもとに発刊された文芸雑誌『白樺』は、セザンヌやロダンをはじめとしたヨーロッパの美術を紹介し、岸田劉生(きしだ・りゅうせい)や木村荘八(きむら・しょうはち)ら当時の若い画家たちの強い共感を呼びました。横浜出身の村山槐多(むらやま・かいた)は、1914年(大正3)に上京して画家を志し、力強い筆致による明暗の対比により独自の画風を切り開きます。院展でも注目され始めた矢先、肺炎により1919年(同8)夭折しました。大正から昭和に入ると、野田英夫(のだ・ひでお)のようにアメリカのアートシーンで認められる画家もあらわれます。昭和初期には、北脇昇(きたわき・のぼる)、小川原脩(おがわら・しゅう)らがシュルレアリスムの強い影響のもと制作しますが、文化や思想の統制が強化される状況下、前衛的な表現が弾圧されるとやがて終息に向かいました。
 戦後ほどなく1949年(昭和24)に始まった無審査公募展「読売アンデパンダン」では、1950年代末以降、若手作家による廃物を用いた立体が数多く出品されるようになります。既存の芸術の枠組みを逸脱するような表現を目指した彼らの中からは、1961年(同36)に渡米した荒川修作(あらかわ・しゅうさく)のように、その後アメリカへと拠点を移し、国際的な活躍をする作家が登場しました。

※野田英夫の油彩画6点、村山槐多の素描3点、小川原脩の油彩画2点、武内鶴之助の油彩・パステル計2点を新たに展示しました。
※現代のコーナーでは、中村一美、荒川修作、森村泰昌、柳幸典の作品を新たに展示しました。