現代の写真Ⅱ「反記憶」

展覧会概要

「現代の写真」シリーズの第2回展「反記憶」を開催します。前回は、「失われた風景-幻想と現実の境界」(1997年2月1日~3月30日)と題して、現代の写真が、必ずしも現実を「真実」として提示するのではなく、日常のさりげない風景やあるいは作家の心象風景、また演出された状況の中で捉えられた風景のなかに、よりリアルな「風景」を示そうとした作家、作品を紹介しました。

今回は、写真に加えてビデオやフィルムの作品を通じて、初回の展覧会の趣旨も踏まえながら、イメージの新たな捉え方を国内外の作家を通じて紹介するものです。前回にも増して、イメージを巡る状況は、ますます多様を極めており、写真の世界でも、デジタル処理による作品が、実験的な段階から本格的な方法として取り入れられだしました。

また、写真家が、写真のみならずビデオをはじめとする映像作品によって作品を制作することも、奇異なことではなくなりました。ますます、世界をどうイメージとしてとられるかといった古くて新しいテーマが、様々な方法によって表現されようとしています。本展は、今日の市場主義経済において機械的に量産されるイメージと妥協することなく、作家たちが、いかにそれぞれの持つイメージの独自性を保とうとしているかを明らかにするものです。写真やビデオ、フィルムといった言葉を想起するとき、絵画や彫刻といった分野を考える際と最も異なる点は、その作品を生み出す装置(カメラ)について無視できないことです。装置を通して生み出されるイメージは、絵筆によって生み出されるイメージ=絵画とは、その意味で、大きな違いを有しているのです。つまり写真的なイメージは、それが指し示すものが、自動的に装置によって写し取られることで生まれるという過程を経るために、そうした違いを生むのです。ですから、写真は、無意識のうちに、現実の「真実」を当然写し取ることが出来るといった神話を生みました。家庭のアルバムにせよ、歴史的な事件の一こまを撮ったイメージも、過去の「記憶」を甦らせてくれる「記号」として一般的には受け止められています。このことは、実は、それぞれのイメージにそって何かを批評するというのではなく、個々のイメージ自体が、過去という総体=世界を知らず知らず分析していることに他なりません。科学的な知識=テキストの蓄積によって装置としてのカメラが発明され、今日にいたるまで改良が加えられた装置から次々とイメージが生み出されます。しかし今や、そうした装置を支える特殊なプログラム言語も含めたテキストは、イメージに取って代わられようとしているかのように見えます。なぜなら、そうしたテキストは、装置の背後に隠されているからです。新聞によって伝えられるテキストにたいする信頼は、迅速かつ明快に伝えられるイメージに取って代わられようとしていることなどは、現代のイメージにたいする一般的な理解の典型的な例です。

こうして日進月歩のうちに、容易くプログラムされた装置が次々と世に出、より簡単にイメージを撮ることが出来ることによって、まるで、世界が、「記憶」に覆われたかのように、より大量のイメージが生み出されます。そして、撮り手も、あるいはそれを見る人もまた、おおきなプログラムの中の共犯者ということが言えます。ここでは、作家たちは、そうした巧みに仕組まれたプログラムから、巧妙に擦り抜けることで、イメージを操作された「記憶」の束縛から解き放そうとします。そのことで、イメージを、プログラムを支配する大きなシステムから、個人の手に戻すことが出来るかどうかが試されています。