コレクション

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伝 ペーター・B. W. ハイネ 《ペルリ提督横浜上陸の図》

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1854年以降 油彩、カンヴァス h. 53.3 × w. 80.5cm 原範行氏、原會津子氏寄贈

1854年3月8日(嘉永7年2月10日)、ペリー率いる東インド艦隊が横浜に上陸した歴史的場面。手前でその様子を見つめる武士、米軍水兵の隊列、その背後の見物人たち、海上の船団などが、強調された遠近法の中に丹念に描き込まれている。この艦隊に随行していたドイツ人画家ハイネの作と目されており、この画家の手になる同一構図の石版画も残されている。ダイナミックかつ整然とした画面構成は舞台の書割を思わせるが、それはハイネがかつて舞台装飾画の仕事に携わっていたことと無関係でなかろう。(松永真太郎)

■ペーター・B. W. ハイネ  1827–1885年
ドレスデン(ドイツ)に生まれる。はじめ建築を学ぶが、次第に画家を志すようになり、奨学金を得て3年間パリに留学。帰国後はドレスデンで宮廷劇場の舞台装飾に従事するが、革命思想を抱いて1848年にドレスデンの5月蜂起に参加、作戦の失敗とともにアメリカへ亡命した。その後、ペリー提督率いる東インド艦隊の遠征に画家として随行。日本をはじめとするアジア各国の風物を油彩や素描で描き、それらはのちに『ペリー日本 遠征記』に纏められた。

ポール・セザンヌ 《ガルダンヌから見たサント=ヴィクトワール山》

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1892–95年 油彩、カンヴァス h. 73.0 × w. 92.0cm

サント=ヴィクトワール山はセザンヌの生地近郊にある標高約1000mの東西に長い石灰岩の山である。セザンヌは、この山を描いた油彩画を30点余り残した。その多くは、山の西方にあるエクスの町からの眺望であるが、本作は西南に位置するガルダンヌから捉えたもので、山は台形状の小高い丘のように描かれる。近景から遠景まで続く淡い茶褐色の大地の稜線を斜めに組み合わせ、薄く溶いた絵具の軽快なタッチを交互に重ねて織物のように画面が作られている。植物を暗示する緑色や塗り残しの部分も、画面構成の重要な要素となっている。(沼田英子)

■ポール・セザンヌ  1839–1906年
南フランスのエクス=アン=プロヴァンスの裕福な銀行家の家に生まれる。中学時代の同級生にエミール・ゾラがいた。1861年にパリに出てアカデミー・シュイスで学び、ピサロと出会い影響を受ける。第1回と第3 回の印象派展に参加するが、自然の変化を写し取ろうとする印象派の表現や思想に馴染めなかった。1880年代以降は堅牢な画面構成を模索し、主にエクスを拠点として風景、静物、人物をモチーフに独自に造形的研究を続ける。1895年に画商ヴォラールに見いだされて個展を開催し、その前衛的な作風は大きな反響を呼んだ。

ギュスターヴ・モロー 《岩の上の女神》

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1890年頃 水彩・グワッシュ、紙 h. 30.2 × w. 19.7cm 坂田武雄氏寄贈

薄暗い洞窟の岩にもたれて魅惑的な眼差しを投げかける半裸の女神。その耳元で何かをささやく緑色の大蛇と頭上に舞う怪しげな黒い鳥。モローは、聖書や神話を題材にしつつ、自分の想像力に従って自由に制作したと言われる。特に「運命の女」としてのサロメはモローが好んだ主題の一つだったが、本作品の女神もまた、男性を誘惑しながら破滅へと導く魔性を秘めているようにも思われる。グワッシュの鮮やかな発色を生かし、繊細な筆遣いで女神の輝くような衣装や装身具を描いている。(沼田英子)

■ギュスターヴ・モロー  1826–1898年
パリ(フランス)に生まれる。1846年エコール・デ・ボザールに入学するがローマ賞コンクールに2 度落選し退学。シャセリオーやドラクロワなどロマン主義の画家たちから影響を受けた。1857年私費でローマに留学し、イタリア各地を旅行。1864年にサロンに出品した《オイディプスとスフィンクス》(1864年、メトロポリタン美術館蔵)で賞牌を受け、ナポレオン公の買い上げとなった。1888年に美術アカデミー会員に選ばれ、1892年にはエコール・デ・ボザールの教授となった。その自由な指導方針の教室からは、マティスやルオーなど個性豊かな画家たちが育った。

パブロ・ピカソ 《ひじかけ椅子で眠る女》

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1927年 油彩、カンヴァス h. 92.0 × w. 73.0cm (C)2014 - Succession Pablo Picasso - SPDA(JAPAN)

キュビスムの実験を経て新古典主義の時代にあったピカソが、当時ヨーロッパを席巻していたシュルレアリスムに接近した時期の作品。描かれている女性は、この年のはじめに出会ったばかりの新たなミューズで、その後の多くの作品のモデルとなるマリー=テレーズと目されている。しかし同時に、当時険悪な関係に陥っていた妻オルガの肖像画の面影を、歯をむき出しにした口の造形に見て取ることができる。記号化された目、鼻、口、そして縞模様の服や髪などのモチーフが、ユーモアと性的含意を湛えながら、リズミカルに画面を構成している。(松永真太郎)

■パブロ・ピカソ  1881–1973年
マラガ(スペイン)に生まれる。バルセロナとマドリードの美術学校で学んだのち、1900年にパリに出る。弱者や貧困を題材にした「青の時代」、道化師や踊り子を描いた「バラ色の時代」を経て、1907年頃から、モチーフを解体して画面上で多視点的に再構成するキュビスムをブラックと創始。その後も尽きることのない創造力によって作風を変転させながら、20世紀絵画を先導し続けた。彫刻、版画、陶芸なども手がけ、そのあらゆる分野で独創性を発揮した。

マックス・エルンスト 《少女が見た湖の夢》

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1940年 油彩、カンヴァス h. 62.0 × w. 85.0cm ©ADGAP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2016 GO537

エルンストは1937年よりデカルコマニーを試みた。画布上の濡れた絵の具にガラス板を押しあてる。その剥がし方に応じて変則的な濃淡模様が顕れると、精密に加筆して具体的な光景を描き起こす。この方法で第二次大戦中に《雨後のヨーロッパⅡ》(1940-42年、ワズワース・アシニアム美術館蔵)や本作のような終末論的風景が生まれた。湖の周囲にかつて繁茂していた自然は様々な怪物に変容している。画面中央下の牛の頭と、右下隅で逃げ道を探すかのような少女は「エウロパの略奪」を暗示するとの指摘がある。制作当時ゲシュタポに追われていた画家は辛くも米国亡命に成功する。(中村尚明)

■マックス・エルンスト  1891–1976年
ケルン近郊ブリュール(ドイツ)の生まれ。ボン大学で文献学、美術史などを学ぶ。1912年画家を志しA.マッケ、アポリネールと知り合う。第一次大戦中兵役。1918年ケルンに戻る。バールゲルトと共にダダを組織。デ・キリコを知る。1921年パリでコラージュ主体の個展。ブルトンらに注目され、エリュアールと知り合う。1922年パリに移る。ロマン主義と深層心理学に通じ、シュルレアリスムの中心的美術家となり、フロッタージュなどの自発的な絵画技法を開発。1930年代にかけてコラージュ小説『百頭女』他を発表。1940年代米国に亡命。戦後はフランスに戻る。

サルバドール・ダリ
≪ヘレナ・ルビンシュタインのための装飾壁画 幻想的風景― 暁、英雄的正午、夕べ》

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1942 / 43年 テンペラ、カンヴァス h. 249.0 × w. 243.0cm、h. 251.0 × w. 224.0cm、h. 247.5 × w. 247.0cm (C)Salvador Dali, Fundació Gala-Salvador Dali, JASPAR Tokyo, 2014 E1182

第二次大戦中米国にいたダリは、化粧品ビジネスで財をなしたヘレナ・ルビンシュタインの依頼により三連の装飾壁画を制作した。ダリは人生の段階を一日の時に喩える寓意的風景画の伝統に倣い、ヘレナの若き日の門出を暁、事業の成功を英雄的正午、71歳の彼女がむかえつつある老境を夕暮として描いた。風景の要素である鳥や雲などが人の顔にも見えるような、ダリ独特の隠し絵的手法を各画面に用いて風景画と肖像画を融合させる。正午の人物はブルトンが注目した錬金術書の挿絵とも酷似し、依頼主の礼賛とは別の含意を示唆する。(中村尚明)

■サルバドール・ダリ  1904–1989年
フィゲラス(スペイン)に生まれる。1921–24年マドリード美術アカデミーに学ぶ。デ・キリコ、未来派、フロイトの精神分析学に触れる。1928 年パリでミロ、ピカソと知り合う。翌年シュルレアリスム・グループに参加、ガラ・エリュアールと出会う。ブニュエルと映画『アンダルシアの犬』と『黄金時代』を制作。緻密なダブルイメージによる「偏執狂的批判的方法」を確立し、それまでの受動的な自動筆記法を基礎としたシュルレアリスム絵画に新境地を開く。フランコ支持を表明しブルトンに運動から除名される。1940年米国移住、1955年以降スペインに戻る。

ルネ・マグリット 《王様の美術館》

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1966年 油彩、カンヴァス h. 130.0 × w. 89.0cm (C)ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2014 E1182

1920年代から晩年まで、マグリット作品に繰り返し登場する山高帽子の男。目、鼻、口のみが残り、そのシルエットには静寂に包まれた森と山の風景が投影されている。一番奥に描かれるべき遠景を前景に描くことで、絵画のルールを覆し、不思議な別世界へと鑑賞者を誘っている。マグリットは作品タイトルを友人に委ねることがしばしばあったといわれ、本作も1927年以来の旧友スキュトネールが、自分が名づけたと証言している。「謎が存在するためには何が描かれなくてはならないか」探究した画家は、作品とタイトルの関係にも謎を潜ませている。(金井真悠子)

■ルネ・マグリット  1898–1967年
レッシーヌ(ベルギー)に生まれる。12 歳のときに油絵と素描のクラスに通い始める。ブリュッセル王立美術アカデミーで学び、その後はキュビスムと未来派に傾倒。商業ポスターや広告デザインで生計を立てていたが、1923年にデ・キリコの作品に感動し、1925 年よりシュルレアリスム絵画を描く。1927年から3年間パリに住み、エリュアールやダリ、アルプらと交遊。1930年以降はブリュッセルで活動する。日常生活の事物の非日常的な組み合わせによって、非現実的で謎に満ちた世界を描き、シュルレアリスムを代表する画家として国際的な名声を博した。

高橋 由一 《愛宕山より品川沖を望む》

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明治10年 油彩、カンヴァス h. 67.0 × w. 97.2cm

愛宕山は、現在の東京都港区に位置し、江戸時代より人々に親しまれてきた丘陵である。由一は、1873(明治6)年頃より日本の名所風景画を描くようになり、本作には元になったとされる2 枚の写生画が残されている。そこには「蒸気船」「蒸気車」などの書き込みがあり、描かれた当時、品川には新橋-横浜間を繋ぐ日本初の鉄道が走っていた。それを示すように、画面中央には黒煙が立ち上っている。この時期、由一はフォンタネージから学んだ空気遠近法を用いており、本作はその特徴を示す中期の典型作である。(大澤紗蓉子)

■高橋由一(たかはしゆいち)   1828(文政11)–1894(明治27)年
下野国(現・栃木県)佐野藩士の嫡子として江戸に生まれる。幼少期に狩野派の画人に学ぶが、同時期に西洋の石版画の写実性に強い感銘を受け西洋画を志す。1862(文久2)年、洋書調所にて川上冬崖の指導を受けた後、1866(慶応2)年に横浜に住むワーグマンに師事。1873(明治6)年、私塾天絵楼(後に天絵学舎と改称)を開設。後進の育成にあたりながらも、1876(明治9)年にはイタリア人画家フォンタネージの教えを受ける。1880(明治13)年、日本初の美術雑誌『臥遊席珍』を刊行。その後も西洋画展覧会を開催するなど、日本における洋画の普及に尽力した。

渡辺 幽香 《幼児図》

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明治26年 油彩、カンヴァス h. 57.8 × w. 84.0cm

シカゴで開催された世界コロンブス博覧会に出品され、各国の女性の優れた業績を紹介する「婦人館」に展示された作品。当時の作品名は《蜻蛉を捕える子》であるが、後年の研究により、腰に結ばれた石臼を引く逞しい赤子の姿は、豊臣秀吉に仕えた戦国武将、福島正則の幼少期の逸話に材をとったものと見られている。博覧会という国際的な場に際し、健やかな赤子という普遍的なモチーフに、強国日本を印象づけるにふさわしい寓意を込めたのだろう。額縁にはおそらく幽香自身の手になる様々な郷土玩具が描かれ、意匠が凝らされている。(内山淳子)

■渡辺幽香(わたなべゆうこう)  1856(安政3)–1942(昭和17)年
江戸に生まれる。絹地に洋風の肖像画や風俗画を描いて横浜に工房を開いた初代五姓田芳柳を父に、チャールズ・ワーグマンに西洋画の技法を学んだ義松を兄に持つ。幼少より兄の身近で絵を学ぶ。1876(明治9)年、義松の弟子の渡辺文三郎と結婚。翌年、第一回内国勧業博覧会で褒状を受ける。版画にも関心を示し、外国人向けに日本風俗を描いた石版画集『寸陰漫稿』(1886年)、銅・石版画集『大日本風俗漫画』(1887年)等を刊行。五姓田派の主要画家として、また明治期の女性洋画家の草分けとして活躍した。

岸田 劉生 《椿君之肖像》

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大正4年 油彩、カンヴァス h. 45.5 × w. 33.5cm

草土社創立メンバーで、劉生を最も深く敬愛していたといわれる画家・椿貞雄がモデル。1914(大正3)年の上京後に銀座の画廊田中屋で開催された劉生の個展で実作品を見て衝撃を受けた椿は、翌年に劉生の画風にならって描いた自画像を片手に劉生宅を訪ねる。劉生は当時18 歳だった椿を歓迎しその作品を賞賛。その後、二人の交流は劉生が死ぬまで続いた。劉生は同年に椿の肖像画を2 点手がけたが、現存するのは本作のみである。デューラーに傾倒し、写実主義に向かった初期の作品で、細密描写にとどまらず、若き青年画家の情熱的な内面性までも表現している。(金井真悠子)

■岸田劉生(きしだりゅうせい)  1891(明治24)–1929(昭和4)年
東京市京橋区(現・東京都中央区)の銀座に生まれる。幼い頃より絵に親しみ、1908(明治41)年に黒田清輝が指導する白馬会洋画研究所で外光派の作風を学ぶ。1911(明治44)年頃より白樺派同人と交遊し、同誌で紹介されたゴッホやセザンヌなど後期印象派に感銘を受け、白馬会を去ってフュウザン会を結成。その後、デューラーなど北方ルネサンスの画家にならった細密描写に取り組み、1915(大正4)年に木村荘八や中川一政らと草土社を結成。後年は初期肉筆浮世絵や宋元画に傾倒し、東洋的画風に没頭していった。

藤田 嗣治 《腕を上げた裸婦》

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大正12年 油彩、カンヴァス h. 80.6 × w. 44.8cm (C)Fondation Foujita / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2014 E1182

「素晴らしき乳白色」と評された独自の絵肌により、藤田がパリでの名声を築き上げた1920年代前半の典型的な裸婦像。藤田はこの時期、前年のサロン・ドートンヌでセンセーションを巻き起こした《ジュイ布のある裸婦》(パリ市立近代美術館蔵)に代表される横たわる裸婦像とともに、本作に類似する縦構図の裸婦立像を複数描いている。右手を頭の後ろから左耳に回し、左手を胸に置くポーズは、この年のサロン・ドートンヌに出品された《五人の裸婦》(東京国立近代美術館蔵)の片膝立ちの女性の上半身とも同形であり、このポーズを変容させながら追求していたことが見てとれる。(内山淳子)

■藤田嗣治(ふじたつぐはる)   1886(明治19)–1968(昭和43)年
東京府牛込区(現・東京都新宿区)に生まれる。東京美術学校西洋画科を卒業後、1913(大正2)年に渡仏。1920年代、乳白色の滑らかな地塗りの上に、面相筆による繊細な線描で裸婦を描く画風を確立し、エコール・ド・パリの寵児となった。中南米を歴訪後、1933(昭和8)年に帰国し、二科展で活躍。戦時中は従軍画家として戦争記録画を描いた。1950(昭和25)年にフランスに戻り、1955(昭和30)年にフランス国籍を取得した。1959(昭和34)年にカトリックの洗礼を受け(洗礼名レオナール)、晩年は宗教画を中心に制作した。

辰野 登恵子 《UNTITLED 96-3》

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平成8年 油彩、カンヴァス h. 227.3 × w. 181.7cm

辰野作品に特徴的な、色を丹念に重ねることで重層的な絵画空間を生み出している一点。1990年代になると、1980年代にしばしば見られた浮遊する形態や、平面的な花模様や菱形は姿を消し、立体的なヴォリュームのある形態が表れてくる。陰影の表現により物質の重量感が出ており、背景の重層的な空間との間に奥行きを生んでいる。二次元平面の中に三次元的な空間を作り出す絵画のイリュージョンを追究していることがうかがえる。(金井真悠子)

■辰野登恵子(たつのとえこ)  1950(昭和25)–2014(平成26)年
長野県岡谷市に生まれる。1968(昭和43)年に東京藝術大学油画科に入学し、1974(昭和49)年に同大学院を修了。初期はミニマル・アートやコンセプチュアル・アートに傾倒するが、次第に絵画の根源的な問題に立ち返り、様々な具体的形態が浮遊する抽象的な空間を描き、絵画空間の広がりを探究するようになる。1995(平成7)年の東京国立近代美術館「辰野登恵子 1986-1995」展など、個展やグループ展に多数出品した。

奈良 美智 《春少女》

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平成24年 アクリル絵具、カンヴァス h. 227.0 × w. 182.0cm (C)Yoshitomo Nara

光輝く色違いの瞳、何か思いを秘めたようにきゅっと閉じられた口。暖かな光に包まれ、真っすぐこちらに向けられた「少女」の眼差しは、「春」という言葉が示すように、新しい出発に込められた強い意志を象徴するようである。奈良の描く人物に特定のモデルはいない。作品は下絵を描くことなく、モザイクのように色面を塗り重ねることで、徐々に図像を生み出す手法で描かれた作者の自画像のような存在である。本作は、2012(平成24)年に横浜美術館で開催された2回目の個展「君や 僕に ちょっと似ている」に出品された。(大澤紗蓉子)

■奈良美智(ならよしとも)  1959(昭和34)年生まれ
青森県弘前市に生まれる。愛知県立芸術大学修士課程修了。1988(昭和63)年よりデュッセルドルフ芸術アカデミーに在籍。2000(平成12)年より海外で相次いで個展を開催し、翌年には国内初の大規模な個展「I DON’T MIND, IF YOU FORGET ME.」が横浜美術館ほか5か所を巡回。その後、絵画のみならずブロンズ、セラミック、FRPなどの彫刻作品や大規模なインスタレーションなど多様な作品を世界中で発表。2012(平成24)年、横浜美術館にて2回目となる個展「君や 僕に ちょっと似ている」を開催。

鏑木 清方 《遊女》

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大正7年 絹本着色、二曲屏風一隻 h. 161.1 × w. 169.6cm

清方が深い親交を結んだ泉鏡花の小説『通夜物語』の遊女・丁山を描く。第3回金鈴社展に出品され、濃艶な主題ながら「一点の淫猥の感なきは筆者の浄潔なる性格を見る」(『中央美術』1918年6月)と評された。20代の頃、様々な古今の文学や風俗を主題として試みた清方の関心は、次第に江戸風俗へと定まり、春章や春信といった江戸中期の浮世絵に規範を見出しながら、独自の叙情性を融合させた可憐な美人画を作り出した。本作には大正という時代を反映した退廃的気配が加味され、2年後の異色作《妖魚》(福富太郎コレクション)を予見させる。(内山淳子)

■鏑木清方(かぶらききよかた)  1878(明治11)–1972(昭和47)年
東京府神田佐久間町(現・東京都千代田区神田佐久間町)に生まれる。戯作者で「やまと新聞」を創立した父、條野採菊の勧めにより、13歳で水野年方に入門。当初は挿絵画家として活躍し、明治30年代より肉筆画の画家として歩み始める。1901(明治34)年、年方門下生を中心に烏合会を結成。1916(大正5)年、吉川霊華らと金鈴社を結成。文展、帝展で活躍し、江戸情緒に根ざした美人画や風俗画で独自の境地を拓いた。一方、展覧会出品の大作に対し、手元で親しみ繊細な筆遣いを味わう画帖や画巻などを「卓上芸術」と名付け、生涯の仕事として力を注いだ。

横山 大観 《雲揺ぐ》

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昭和2年 絹本墨画、一幅 h. 187.9 × w. 72.7cm

水墨画は、中国盛唐期に描かれるようになり、日本では、宋元画の影響を受けて、鎌倉時代後期から室町時代にかけて発展した。雪舟がその完成者とされる。7世紀末の画家である殷仲容の画が「墨が五彩を兼ねる」と評されたように、多くの画家が、墨の濃淡・諧調によって光や色を表現しようと試みてきた。本作では、前景に濃墨で、懸崖と微妙な諧調の樹相を描くことによって、煙霧の中に映える巨大な瀧の神々しさを巧みに強調している。川合玉堂や下村観山、山元春挙や竹内栖鳳など東西の巨匠が競作した淡交会第四回展出品作である。(柏木智雄)

■横山大観(よこやまたいかん)  1868(明治元)–1958(昭和33)年
現・水戸市に生まれる。本名、秀麿。1889(明治22)年東京美術学校に第一期生として入学、校長・岡倉覚三(天心)の薫陶を受け生涯師と仰ぐ。1898(明治31)年天心の非職に殉じ、同志と連袂し同校助教授職を辞し(免職)、日本美術院創立に参画、朦朧体と揶揄される没線描法を春草と模索。外遊を経て、茨城県五浦に転宅、経営難に陥った院の再建に尽力する。天心没後、1914(大正3)年美術院を再興、院を主導し日本画革新を推進した。

下村 観山 《小倉山》

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明治42年 絹本着色、六曲屏風一双 h. 157.0 × w. 333.5cm(各)

観山は、1903(明治36)年2 月から、2か年の英国官費留学と欧州視察を経験する。渡欧前から白黒図版を研究し西洋画の構図などを自作に援用していた観山は、彼の地で西洋画の色彩表現を実地に学び、帰国後は西洋顔料を併用するなど実験的な表現に取り組んだ。本作は、小倉百人一首にある平安時代の公卿・藤原忠平(諡・貞信公)の和歌「小倉山峰のもみじ葉心あらば今ひとたびの御幸またなむ」の歌意を絵にしたもので、狩野派や大和絵、琳派などの手法に西洋画の構図や色彩感覚を加味し、さらに造形の背景に文学性を取り入れた意欲作である。(柏木智雄)

■下村観山(しもむらかんざん)  1873(明治6)–1930(昭和5)年
現・和歌山市に生まれる。本名、晴三郎。狩野芳崖、橋本雅邦から狩野派の筆法を直伝される。大観らと東京美術学校に第一期生として入学、岡倉覚三(天心)に師事する。天心の非職に殉じ、同志と連袂し同校助教授職を辞職、日本美術院創立に参画。英国官費留学・欧州視察を経て、茨城県五浦に転宅、経営難に陥った院の再建に尽力する。天心没後、大観らと美術院を再興、狩野派、大和絵の技法に西洋画の要素を取り入れ、典雅な画風を確立した。

今村 紫紅 《伊達政宗》

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明治43年 絹本着色、一幅 h. 120.5 × w. 71.0cm 原範行氏、原會津子氏寄贈

第12 回紅児会出品作。本作を進呈した仙台出身の服部六之助宛書簡で紫紅は、豊臣秀吉の不審を蒙って上洛した折、磔刑の柱に金箔を置いて決意を示した伊達政宗を描いたと題意を説いている。隻せき眼がんの政宗に眼帯はなく、白装束でもなく、また十字架も丸ごと描きこまず政宗に焦点を当てた。説明的な歴史人物画を越えた、政宗の新たな肖像を描き出している。脇差に濃緑色を差して渋い色目の衣を引き立て、十字架の金色を衣に差した金色と響き合わせるなど、紫紅の色彩感覚の冴えも窺わせる。紫紅没後、三溪・原富太郎の所有となった。(八柳サエ)

■今村紫紅(いまむらしこう)  1880(明治13)–1916(大正5)年
現・横浜市中区尾上町に生まれる。家業は提灯問屋。17歳で松本楓湖この安雅堂画塾に入門し、院展や巽画が会をはじめ、安田靫彦らとの紅児会などに意欲作を発表した。1911(明治44)年文展で褒状を受けた《護花鈴》(霊友会妙一記念館蔵)を縁に、三溪・原富太郎の援助を受ける。1914(大正3)年にインド旅行を敢行、その成果を《熱国之巻》(東京国立博物館蔵、重要文化財)に結実させた。速水御舟らと赤曜会を結成し、一層の活躍が期待されたが35歳で急逝した。古典的主題に独自の解釈を示し、斬新な構図や描法による、色彩豊かでモダンな画風を築いた。

安田 靫彦 《窓》

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昭和26年 紙本着色、額 h. 117.2 × w. 75.0cm

大磯の靫彦邸に建て増した子供部屋の一隅。一見すると、ガクアジサイが室内に活けられているかと見紛う。が、それは敢えて遠近感をなくし屋内外の一体感を導いた画家の狙いであり、それゆえ清々しい風が吹き抜けるようである。歴史画を本領とした靫彦が戦後身近な日常への愛しみを描く新境地が窺える。木目美しい板敷きに配された赤絵の小壺、白磁の筆立て、裾すぼまりの長壺、文鎮にした漢の青銅器の帯鉤などはみな靫彦自らが収集した品。赤罫紙は常用のものではなく木目模様との対比を狙ったものと思われる。再興第36回院展出品作。(八柳サエ)

■安田靫彦(やすだゆきひこ)  1884(明治17)–1978(昭和53)年
現・東京都中央区日本橋人形町に生まれる。1898(明治31)年に小堀鞆音に入門し、同門で紫紅会を結成、今村紫紅の参加で紅児会と改称し研鑽を積む。岡倉覚三(天心)に認められ、三溪・原富太郎の援助を受けた。天心没後、日本美術院の再興に参画し、横山大観らの次世代の中心的画家として意欲作を残した。東洋の古典への深い造詣に基づいて、日本の古典文学や中国の故事、また古代風俗などに取材し、歴史画や肖像画に新生面を拓いた。心地よい緊張感を伴う線描や清潔感ある色彩の調和で、高雅で品格をたたえた画風を特徴とした。良寛の書の研究でも知られる。

片岡 球子 《面構 浮世絵師鈴木春信と博物学者平賀源内》

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昭和60年 紙本着色、二曲屏風一双 h. 130.3 × w. 193.9cm(各)片岡球子氏寄贈

「面構」は歴史上の人物を描いたシリーズで、球子が61 歳の時に着手された。きっかけとなったのは京都の等持院で見た足利尊氏像で、顔には「人物の魂がのりうつっている」と解釈した画家は、自身の想像力を掻き立てる人物たちと深く対話し、自由闊達な筆遣いによって彼らを現代に蘇らせた。本作は江戸中期の浮世絵師で美人画の名手である鈴木春信と、春信と親交が深く、浮世絵の隆盛に力を注いだと言われる平賀源内を組み合わせている。(太田雅子)

■片岡球子(かたおかたまこ)  1905(明治38)–2008(平成20)年
現・札幌市に生まれる。女子美術専門学校(現・女子美術大学)の日本画学科を卒業後、1926(大正15)年から横浜市大岡尋常高等小学校(現・横浜市立大岡小学校)の教諭を勤める。仕事の傍ら帝展への出品を試みるが相次いで落選。中島清之の勧めで院展に出品し、1930(昭和5)年に初入選、1952(昭和27)年に院同人となった。「富士」のシリーズや歴史上の人物をテーマにした「面構」など、力強い構図と鮮烈な色彩、奔放な筆遣いによって従来の日本画を揺るがす革新的な表現を確立した。

エドガー・ドガ 《ルーヴル美術館考古展示室にて、メアリー・カサット》

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1879–80年 ソフトグランド・エッチング、ドライポイント、アクアチント、エッチング(9 / 9ステート) h. 27.0 × w. 23.7cm

ドガはメアリー・カサットやカミーユ・ピサロと、版画集『昼と夜』の出版を準備した。実際に刊行には至らなかったが、本作はそのために制作された一点で、ルーヴル美術館のエトルリアの石棺彫刻が並ぶ展示室にいるカサットと姉のリディアを描いている。腰かけて本を読む姉に対し、カサットはシックな服装に身を包み、雨傘をステッキ代わりに立つポーズで描かれ、彼女の知的で凛とした性格を表わしている。展示ケースのガラスに反射した光景や光が、アクアチントの濃淡で巧みに表現されている。(金井真悠子)

■エドガー・ドガ   1834–1917年
パリ(フランス)に生まれる。1855年に国立美術学校に入学し、アングルの弟子のルイ・ラモートのもとで絵画を学ぶ。初期はルネサンス美術に深い感銘を受けて歴史画を手がけるが、次第に現代の都市生活に主題を求め、競馬場やバレエの踊り子、サーカスの芸人などを描くようになる。1862年にエドゥアール・マネと出会い、1868年から印象派の画家たちと交遊。1874年の第1回印象派展から主要メンバーとして出品を続けた。日本の浮世絵や写真から影響を受けたと思われる大胆で斬新な構図の作品は、活気と躍動感に溢れ、発表当時から注目を集めた。

ポール・ジャクレー 《オウム貝、ヤップ島》

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1958年 多色木版 h. 39.4 × w. 30.0cm, 稲垣テレズ氏寄贈

病弱だったジャクレーは1929年から1937年頃まで毎年冬になると、当時日本の委任統治領であったミクロネシアの島々に滞在した。本作は、そこで取り組んだ現地の人々のスケッチや水彩画をもとに制作した、南洋をテーマとする木版画の一点。カロリン諸島のヤップ島で出会った若い男の力強い肉体と、青い海や青い空、ハイビスカスやオウム貝など、南国を象徴するモチーフで彩られている。異国情緒を伝える鮮やかで透明感のある色彩に加え、従来の浮世絵とは異なり、筆ではなく鉛筆で描かれた下絵の精緻な線描が作品に生命感を与えている。(金井真悠子)

■ポール・ジャクレー 1896–1960年
パリ(フランス)に生まれる。3歳のときにフランス語教官の父を追って家族と共に日本に移り住み、生涯を日本で過ごした。11歳で白馬会洋画研究所の黒田清輝や久米桂一郎に油彩画を、13歳で池田輝方・蕉園夫妻に日本画を学ぶ。1929年から1930年代後半にかけて毎冬滞在したミクロネシアの島々や、母が再婚後に転居したため度々訪れた朝鮮を題材に、1934年から彫師と摺師と協働する浮世絵版画の技法で多色木版画を制作。1936年から翌年にかけて『世界風俗版画集』を刊行。訪れた土地の風俗を色鮮やかに描いた作品は、国内外で人気を博した。

月岡 芳年 《藤原保昌 月下弄笛図》

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明治16年 多色木版 h. 35.9 × w. 72.1cm 加藤栄一氏寄贈

藤原保昌は平安中期の貴族で、和泉式部の夫。武勇に長けた人物としても知られる。本作は盗賊の首領、袴垂保輔が朧月夜に一人笛を吹きながら歩く藤原保昌を付け狙うが、保昌が全く隙を見せないために襲い掛かることができず、遂には従ったという「今昔物語」の説話に基づく。緊迫感溢れるダイナミックな構図は、芳年の得意としたところである。1882(明治15)年の第一回内国絵画共進会に出品した絹本着色の肉筆画を、後に錦絵として出版した作品。(太田雅子)

■月岡芳年(つきおかよしとし)  1839(天保10)–1892(明治25)年
江戸・新橋の商家、吉岡屋の次男として生まれる。本名、米次郎。のちに月岡雪斎の家を継ぎ、月岡姓を名乗った。1850(嘉永3)年、歌川国芳に入門。武者絵、役者絵、美人画など幅広いジャンルを手掛け、「血みどろ絵」と呼ばれる凄惨な場面を描いた作品で強烈な個性を発揮し、一躍名を馳せた。強度の神経病から回復し、「大蘇」と号した1873(明治6)年以降は、葛飾北斎や菊池容斎の影響のもと、画題や構図などに近代的な要素を取り入れて独自の画風を拓いた。

小林 清親 《海運橋(第一銀行雪中)》

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明治9年頃 多色木版 h. 21.7 × w. 33.6cm 加藤栄一氏寄贈

中央に聳える建物は1873(明治6)年に開業した第一国立銀行。五階建て青銅瓦葺の洋風建築は、開化の風俗として当時の浮世絵に競って取り上げられた主題のひとつである。清親はそこに、着物姿で傘を差す女性を配して和洋新旧を対比させながら、西洋の遠近法や陰影法を用いた新表現の風景版画、いわゆる光線画として仕上げた。傘に記された「銀座 岸田」とは、岸田吟香(岸田劉生の父)が営む、精錡水という目薬で有名な楽善堂のことである。(太田雅子)

■小林清親(こばやしきよちか)  1847(弘化4)–1915(大正4)年
江戸・浅草に生まれる。幼名勝之助。1875(明治8)年頃から、浮世絵師として活動を開始。1876(明治9)年から1881(明治14)年にかけて、伝統的な浮世絵版画に、西洋の遠近法や陰影法を取り入れて、大気や光の表現に新境地を開いた「光線画」を発表。同じ様式による風景版画は計93図出版され、「東京名所図」シリーズとして人気を博した。1881(明治14)年以降はポンチ絵や西南戦争に取材した戦争絵などを描き、晩年は肉筆画へと移行した。

長谷川 潔 《時 静物画》

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昭和44年 メゾチント h. 26.5 × w. 35.7cm

長谷川潔は、渡仏後、廃れていた古典技法、マニエール・ノワール(メゾチント)に関心を持ち、独自の技法で蘇らせることに成功した。1959(昭和34)年以降はそれを進化させて、ベルソーで細かく目立てをしてビロードのような漆黒の画面を作り出し、生命や宇宙の神秘を表現した。この作品では、画面の中央に輝くような細い輪と小鳥が描かれ、周囲には砂時計、小さな球体、木葉や花が配されている。長谷川はこの作品に寄せた詩の中で、止められない時の流れ、円環のような宇宙の営み、そして決して捕らえられない幸福の鳥について詠っている。(沼田英子)

■長谷川潔(はせがわきよし)  1891(明治24)–1980(昭和55)年
現・横浜市西区西戸部町に生まれる。1912(大正元)年、文芸誌『聖盃』の同人となり、木版画で自画・自刻・自摺の創作版画の制作を始める。1918(大正7)年、銅版画の技術を修得するために渡仏。以後一度も帰国することなく、フランスの画壇で画家、銅版画家として活躍した。当時廃れていたマニエール・ノワール(メゾチント)を独自の技法で復活させ、晩年には漆黒の空間に形象が浮かび上がる幻想的な作品を制作して高い評価を博し、1966(昭和41)年にはフランス芸術文化勲章を、1968(昭和43)年には日本の勲三等瑞宝章を受章した。

エリファレット・ブラウン・ジュニア 《遠藤又左衛門と従者》

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1854年 ダゲレオタイプ h. 11.4 × w. 8.2cm

ブラウン・ジュニアは、ペリー提督率いる東インド艦隊に随行してアメリカより来日し、当時最も普及していた写真技術であるダゲレオタイプ(銀板写真)で、幕府や各藩の役人たちを撮影した。本作はそのうち、1854(嘉永7)年5月函館で対外交渉にあたった松前藩士、遠藤又左衛門とその従者を撮影したもの。国内で撮影された日本人の肖像写真としては最も古いひとつとされ、2006(平成18)年に重要文化財に指定された。ブラウン・ジュニアはこの写真のほか4枚の日本人の肖像写真を撮影したことが知られている。本作は後に石版画として制作され、『ペリー日本遠征記』(1856年)に掲載された。(大澤紗蓉子)

■エリファレット・ブラウン・ジュニア  1816–1886年
ニューベリーポート(アメリカ)に生まれる。ニューヨークを拠点に商業的な画家・版画家として活動し、1853(嘉永6)年にペリー率いる東インド艦隊に、画家・写真家として随行。翌年には琉球、下田、横浜、函館に上陸し、ダゲレオタイプを用いて幕府や各班の対外交渉役の要人をはじめとする、日本人の肖像写真や各地の風景を撮影した。それらの一部は木版画やリトグラフの制作に使用され、『ペリー日本遠征記』などに掲載されている。帰国後は写真や版画の制作から離れ、海軍に留まった。

アントニオ・ベアト 《遣欧使節とスフィンクス》

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1864年 アルビュメン・シルバー・プリント h. 25.2 × w. 30.1cm

1864(文久3)年、徳川幕府は生麦事件や薩英戦争で関係の悪化したイギリスをはじめとする欧州各国との外交問題の解決と、尊皇攘夷派の力を鎮めるべく、横浜のみの鎖港を目指し遣欧使節団をフランスに派遣した。その正使となったのが池田筑後守長発であり、35 名の使節団は「横浜鎖港談判使節団」と呼ばれた。この写真は、この使節団が皇帝ナポレオン3 世に謁見するためパリへ向かう途上に、ギザ(エジプト)のスフィンクスの前で撮影されたもの。35 名のうち24 名が写っている。撮影者のアントニオ・ベアトは、当時横浜で活動していた写真家フェリーチェ・ベアトの兄弟であった。(大澤紗蓉子)

■アントニオ・ベアト  不詳–1906 年頃
出生地不明。1853年頃より、兄弟であるフェリーチェ・ベアトとともにイギリスの写真家ジェームズ・ロバートソンのもとで働き、ギリシア、イスラエルのほか、クリミア戦争などを取材。その後フェリーチェはインド、中国を経て日本へと向かうが、アントニオはインドまでを共にし、1862 年にはエジプト、ルクソールにて写真スタジオを開設。以降はエジプトの遺跡や風景などを撮影しながら同地で暮らした。

マン・レイ 《思考に対する物質の優位性》

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1931年(後年のプリント) ゼラチン・シルバー・プリント h. 20.1 × w. 28.5cm リュシアン・トレイアール氏寄贈 (C)MAN RAY TRUST / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2014 E1182

絨毯の上に裸で横たわる女性。マン・レイと、当時弟子だった写真家リー・ミラーが偶然に発見した「ソラリゼーション」(現像の途中で強く露光することで画像のトーンを変調させる手法)を用いて、硬質で無機的な官能美を創出している。マン・レイは、シュルレアリスムの理念のもと、悟性ではなく「機械眼」たる写真メディアのもつ即物性と偶然性の要素を前面に押し出すことで、写真表現の新しい地平を拓いていった。その創作上のコンセプトは、本作のタイトルからも読み取れる。(松永真太郎)

■マン・レイ  1890–1976 年 フィラデルフィア(アメリカ)に生まれる。本名はエマニュエル・ラドニツキー。1917年頃からマルセル・デュシャンらとともにニューヨーク・ダダを展開、1921 年にはパリに渡ってシュルレアリスム運動に参加する。絵画、映画、そしてレディ・メイドの手法にもとづくオブジェなど、多岐にわたる作品を手がけるが、とりわけ彼の名声を不動にしたのは写真であった。レイヨグラフ、ソラリゼーションなどの独創的技法による実験を展開する一方で、芸術家仲間や文学者をモデルにしたポートレートも数多く残している。

梅阪 鶯里 《竹林》

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撮影年不詳 ゴム印画 h. 31.0 × w. 39.0cm

19世紀末からの欧米におけるピクトリアリズムの時代に隆盛し、日本の芸術写真の担い手たちにも愛用された「ゴム印画」は、梅阪がその高度な技術力をもっとも発揮した印画法である。本作の、水墨画を思わせる柔らかなグラデーションは、焼き付けと現像を何回も繰り返すこの緻密な技法ならではの効果である。その繊細な諧調表現に加え、竹林という主題選択や構図法には、梅阪の日本画への傾倒がよく見て取れる。日本のピクトリアリズムの技術的な到達点を示す作例であり、ジャポニスムを紹介する海外の書籍でもしばしば取り上げられている。(松永真太郎)

■梅阪鶯里(うめさかおうり) 1900(明治33)–1970(昭和40)年
大阪府に生まれる。本名は梅吉。家業の株式仲買業を手伝うかたわら写真に興味をもち、1918(大正7)年に地元の写真サークルに入会、1920(大正9)年には浪華写真倶楽部に参加する。1926(昭和元)年、第1回日本写真美術展で《夜網》(横浜美術館ほか蔵)が「推薦」となる。公募写真展の興隆期に出品・受賞を重ね、関西アマチュア写真界の中心的地位を固めていった。1927(昭和2)年には安井仲治らと銀鈴社を結成。身近な風景や植物をモチーフにしたゴム印画写真に、繊細な感性と高度な印画技術を発揮した。

中平 卓馬 《無題 「原点復帰―横浜」より》

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平成14–15年 発色現像方式印画( ed.1 / 5) h. 90.0 × w. 60.0cm(各) 左から2点目は中平卓馬氏寄贈

中平は、1973(昭和48)年の評論集『なぜ、植物図鑑か』において、それまでの作品に見られた著しいブレや荒れた粒子の画面による、表現としての写真を否定し、即物的な写真を目指すようになる。本作の被写体は中平が暮らす横浜の風景が大半で、また一部には、沖縄で撮影された写真も含まれている。特定の感情や象徴性を持つことなく、その時々中平が目にしたものが、縦長のフォーマットに簡潔に写し撮られている。これらは2003(平成15)年に横浜美術館で開催された個展「原点復帰―横浜」で発表された。(大澤紗蓉子)

■中平卓馬(なかひらたくま)  1938(昭和13)-2015(平成27)年
現・東京都に生まれる。1964(昭和9)年、雑誌『現代の眼』編集部在籍中に写真家・東松照明との仕事をきっかけに写真を撮り始め、同時期に映画や写真の評論も始めた。1968(昭和42)年、評論家の多木浩二らと写真同人誌『プロヴォーク』を刊行。後に「アレ・ブレ・ボケ」と呼ばれた写真表現により写真界に衝撃をもたらす。1970(昭和45)年、初の写真集『来たるべき言葉のために』を刊行。その後病に倒れ記憶の一部を喪失するが、写真家としての活動を再開。復帰後は横浜を拠点に活動を続け、2003(平成15)年に横浜美術館で個展を開催した。

森村 泰昌 《なにものかへのレクイエム(夜のウラジーミル)1920. 5. 5–2007. 3. 2》

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平成19年 発色現像方式印画(ed. 1 / 5)h. 150.0 × w. 187.5cm

名画の登場人物や、往年の映画女優に自ら扮したセルフ・ポートレート写真を発表してきた森村は、本作で一転、20世紀の革命家ウラジーミル・レーニンに「なった」。作品の舞台には、大阪のドヤ街として知られる釜ヶ崎が、レーニンによる演説が行われたボリショイ劇場前に見立てられた。同時に発表された映像作品の中で森村/レーニンは、高度経済成長期やバブル景気の建設ラッシュを足元で支えてきた人々に対し、人間のむなしさについて演説する。その姿には、労働者による理想社会を標榜した社会主義革命の夢と、一世紀後の日本の現実とが、象徴的に対比されている。(木村絵理子)

■森村泰昌(もりむらやすまさ)  1951(昭和26)年生まれ
大阪市に生まれる。1985(昭和60)年、ゴッホの自画像に扮したセルフ・ポートレート写真を発表。以後、一貫して「自画像的作品」をテーマに、美術史上の名画や往年の映画女優、20世紀の偉人たちなどに扮した写真や映像作品を制作している。1988(昭和63) 年、ヴェネチア・ビエンナーレ、アペルトに出品したほか、国内外で多数の展覧会に出品。横浜美術館では1996(平成8)年「美に至る病―女優になった私」と、2007(平成19)年「美の教室、静聴せよ」の2 回にわたり個展を開催した他、2014(平成26)年のヨコハマトリエンナーレ2014のアーティスティック・ディレクターを務める。

コンスタンティン・ブランクーシ 《空間の鳥》

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1926年(鋳造1982年、ed. 3/8) ブロンズ、石灰岩 h. 132.4 × w. 35.5 × d. 35.5cm(本体と台座中段まで)
©Succession Brancusi - All rights reserved (Adagp) 2016 GO537

ブランクーシが突詰めた鳥は直立している。その体は先端が斜めにカットされ、下に向かってゆるやかに膨らみ、脚の付け根に収束していく。脚部は僅かに波打ちながら広がり、作家考案の三段式台座に載る。全体は左右対称で、鳥の先端から台座の最下段までを貫く中心線が天と地を結ぶ。羽毛に替えて輝きを纏う肌。形とポジションと光。モチーフは作者の祖国ルーマニアの伝説の鳥マイアストラ。煌びやかな翼をもち、唄声には慈善の魔力が備わる。先端は開いた嘴だろう。特別な場に降り立った鳥は胸を張り天に向かって高らかに囀る。作者の最盛期、サイズや均整の異なる17種の《空間の鳥》が作られた。本作はE.スタイケンの購入品と同じ原型に基づく。(中村尚明)

■コンスタンティン・ブランクーシ  1876–1957年
ホビツァ村(ルーマニア)に生まれる。1898-1902年ブカレスト美術学校で学ぶ。1902-04年ルーマニアから行程の多くを徒歩でパリに向かう。1905年パリ国立美術学校に入学。1906年サロン入選。審査員ロダンに翌年弟子入りするが3か月で退く。《接吻》で石の直彫りに取り組む。トルソや動物の本質的な形態を追求する一方、表面処理や台座作成までを自ら行う。1927年米国税関が《空間の鳥》を機械部品として課税したため、美術作品か否かをめぐる裁判となり、ブランクーシ側が勝訴。1938年トゥルグ=ジュ公園のモニュメントが完成。1952年フランス国籍取得。

イサム・ノグチ 《真夜中の太陽》

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1989年 赤と黒のスウェーデン産花崗岩 h. 220.5 × w. 199.0× d. 119.0cm (C)2014 The Isamu Noguchi Foundation and Garden Museum/ARS, N.Y. / JASPAR, Tokyo, 2014 E1182

昼と夜、太陽と暗闇とを象徴するような赤色と黒色の石材が、交互に連結されて円環を作り、一点のみで台座上に支持されたその様子は、ほとんど宙に浮いているかのように重さを感じさせない。ノグチは若い頃から、仏教の思想、とりわけ禅に興味を持っていた。本作には、石という悠久の素材が織りなす輪廻転生の思想が根底にある。それとともに、中空/無の形状でありながら、空間のヴォリューム感を表現する彫刻家としての挑戦とが同居した作品である。(木村絵理子)

■イサム・ノグチ  1904–1988 年
ロサンゼルス(アメリカ)に生まれる。詩人の野口米次郎と、米次郎のアメリカにおける仕事上の協力者であったレオニー・ギルモアの間に生まれ、幼少期は日本で生活した。パリでブランクーシに師事した後、ニューヨークを拠点に作家活動を始める。パブリックアートを含む彫刻制作に加え、舞台美術、プロダクトデザインなど幅広く活動。後年は、ニューヨークと香川県牟礼町のスタジオを行き来し、現在両スタジオはイサム・ノグチ庭園美術館として一般公開されている。横浜美術館では、2006 年に個展「イサム・ノグチ 世界とつながる彫刻展」を開催した。

宮川 香山(初代) 《青華鳳凰形花器》

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大正元– 5年 陶磁器 h. 14.3 × w. 46.6× d. 14.2cm 間島松太郎氏寄贈

初期には輸出向けに高浮彫の装飾による作品を制作していた初代宮川香山は、明治20年代頃からは国内向けに方向転換し、釉薬や釉下彩などの研究を重ね、卓抜した技術による洗練されたデザインの作品を多く生み出した。本作は器全体で鳳凰舟をかたどり、染付で加飾された花器で、香山晩年の作と考えられる。頭部や翼などに精緻に描きこまれた文様が、青華の瑞々しい発色と相まって優美な印象を与える。底部には舟形を意識して波の文様が施されており、舟が水上に浮かんでいるかのようである。(太田雅子)

■宮川香山(みやがわこうざん)(初代)  1842(天保13)–1916(大正5)年
京都真葛ヶ原(現・京都市東山区)に生まれる。家は製陶を業としており、幼い頃より父や兄の仕事を見て成長した。1871(明治4)年、現在の横浜市南区庚台に窯を開き、「真葛焼」と称する陶磁器を制作。初期には精巧な高浮彫を装飾に取り入れた薩摩焼風の豪華な作品を作り、1876(明治9)年のフィラデルフィア万国博覧会で受賞するなど欧米で絶賛された。後期には洗練された器型の青磁や染付の陶磁器を作るようになり、様々な釉薬の開発にも取り組んだ。後に帝室技芸員に任命され、日本近代陶芸の誕生期に華々しい活躍を見せた。


※作品解説執筆:横浜美術館学芸員、文末に執筆者名明記