蔡國強展アーカイブ

    蔡國強展スタッフコラム 第1回

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    現在開催中の蔡國強さんの個展「帰去来」。会期も折り返して後半に入ってきました。ここで改めて、この展覧会準備にまつわるエピソードを、展覧会の学芸担当がリレー形式でご紹介します。第1回目は、プロローグとして本展企画者の逢坂館長が特別寄稿。蔡さんの思い出を語ります。

    第1回

    「蔡國強展:帰去来」学芸チームは、横浜美術館のグランドギャラリー内で火薬爆発による作品制作を実現したなかなかのチーム です。 様々なハードルを一気呵成に乗り越えてきた姿はまるで《壁撞き》の狼のよう。世界を駆け回るタフでしなやかなアーティスト、蔡國強さんとともに走り続けた 日々。本展も終盤に入り、今まで語ることのなかったエピソードを中心に、知られざる展覧会の魅力をお伝えします。

    蔡國強―水戸芸術館での遭遇

    いきなり私ごとで恐縮ですが、私が水戸芸術館現代美術センターで学芸員として働きはじめたのは1994年4月1日でした。3月下旬、水戸への引っ越しを済ませて水戸芸術館に赴いた日、遭遇したのが蔡國強さんの作品展示作業でした。夜、車の通行を遮断し、クレーン 車で吊りあげられた獅子の石像が所定の場所に無事設置されると、安堵の拍手がおきました。
    4月2日から始まる展覧会、「水戸アニュアル'94:開放系」の出品作家として蔡さんは、水戸のための風水プロジェクトを提案。水戸市街地図上の龍脈を特定し、街の気運を高めるため獅子像を設置するという計画を作品として実現したのでした。獅子像は会期中、水戸芸術館前に設置され、その後、龍脈の首に当たる場所に移築、今日にいたっています。
    一方、現代美術センターでは、屋内にドーナッツ状の金網製鳥小屋が作られ、250羽の紅雀が飼育されました。仏教用語の「放生」と題されたこの作品は、小屋から外へ鳥を放つために、来館者が一羽につき500円払うというものでした。学芸員は毎日、鳥のえさやりと糞の掃除に追われることになりましたが、多くの来館者が 鳥を空に返すために貢献しました。その土地の人と作品を作る、その土地の物語を生み出すという蔡さんの作品制作上の理念は、水戸でも実践され、私の水戸での生活は蔡國強の作品とともにスタートしたのでした。

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    水戸芸術館前に設置された蔡國強の獅子像(1994)
    写真提供:水戸芸術館現代美術センター

    蔡國強作品とヴェニス・ビエンナーレ

    蔡國強の作品を初めて見たのはいつか?と問われると判然としません。福岡で行われたミュージアムシティ・天神'90かどうか記憶があいまいです。かわさきIBM市民文化ギャラリー、牛窓国際芸術祭、P3 art & environment、いわき市立美術館と「地平線プロジェクト―環太平洋より」、京都市役所、世田谷美術館、資生堂ギャラリー、ワタリウム、東京都現代美術館などなど、1990年あたりから蔡さんが渡米する1995年までの国内展示は、比較的良く見に行きました。1993年にはオックスフォード近代美術館で中国現代美術展が開催され、運よく見る機会を得ましたが、屋外での火薬爆発によるプロジェクトは見ていません。
    ヴェネチア・ビエンナーレは1990年から毎回見に行くようになりました。1995年トランス・カルチャー展に出品した≪マルコ・ポーロの忘れ物≫につづき1999年の蔡さんの展示、≪ヴェネチアの収租院≫には、またまた驚かされました。総合ディレクターだったハロルド・ゼーマンはこの年、中国のアーティストを数多く選定し、中国現代美術の胎動を印象づけました。すでに国際的な現代美術界でキャリアを積んでいた蔡さんは≪ヴェネチアの収租院≫で国際金獅子賞を受賞。
    2005 年、ヴェネチア・ビエンナーレに中国館が開設され、その初代キュレーターとして「蔡國強を指名」と知ったときは、私はひとり感慨にふけりました。86年に祖国を離れた蔡さんが日本滞在中の1989年、天安門事件がおこりました。蔡さんは中国へは戻らず1995年ニューヨークに拠点を移しました。その10年目が2005年。世界のアート界では経済発展に伴い中国現代美術への関心と評価が益々高まり、蔡さんの実力を中国政府が認める時代にようやくなったのだ、と実感したのでした。(逢坂恵理子)

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    トランス・カルチャー展会場@ヴェニス。
    《マルコ・ポーロの忘れ物》(1995)で設置された漢方飲料の販売機の前で、蔡さん+ホンホンさんと私。なんと20年前!