学芸員アーカイブ

    篠山紀信展 学芸員コラム vol.7 「聖セバスチャン」の奇跡 下

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    展示室であらためて高さ3mもある《三島由紀夫》の写真を観察して気が付いたことがあります。背景と人物のパースペクティヴ(遠近法)がずれているようなのです。黒い大木は、画面下端では写真の幅の半分ほどを占めているのに、上端は三島の肩幅くらいに窄まっているのです。高さにしてせいぜい1.5mか、2mに満たない範囲内で、ここまで円錐状に細くなる幹というのはちょっと不自然ではないでしょうか。これはカメラを少し上向きにして撮影した結果、樹木の輪郭にパースがかかったためではないかと思います。それに対して人物は胸のあたりにレンズの中心を合わせて撮影している。つまり、背景はあらかじめ人物抜きで撮影されたと考えられます。

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    左:《三島由紀夫》1968年/右:《三島由紀夫》1969年、展示風景

    それでは、人物と背景はいかにして合一されたのか。それは今となっては古典的な方法だったと思います。明治大正から昭和にかけての写真館には、肖像写真用に背景画が用意されていました。西洋風の庭園などをバックに、真っ白い服を着た赤子を膝に、着飾って猫脚の椅子に腰かけた夫人と、その傍らで白手袋に軍刀を下げ、勲章を胸に軍服姿で立つ夫、といった具合に、ご家庭の古いアルバムの中に、そうしたスタジオで撮影されたご家族やご先祖の記念写真を持っておられる方もおありでしょう。このセバスチャンを演じる三島由紀夫も同じように、スタジオに大木のある風景の写真を大きく伸ばして背景画として立てて、その前でポーズをとって撮影されたのではないかと推測されるのです。

    この仮説に味方してくれそうな論拠をふたつ見つけました。

    その1:先回紹介した『婦人公論』の記事の中で、篠山さんはこの写真について、「ちょっと角度が違うと矢を支える針金が写ってしまうから微妙に位置を変えた」と語っておられます。矢を針金で支えるためのセッティングはスタジオでなければ難しいでしょう(ついでながら、針金をラボ操作で消すという選択肢もなかった)。

    その2:三島は「男の死」以前に、『薔薇刑』(1963年刊)という写真集のモデルになっています。その中に、森の中の大木を描いたルネッサンス風の背景画を背に、ちょうど聖セバスチャンのような位置にたたずむように立つ褌姿の三島を写した1枚があります。撮影者細江英公氏の「『薔薇刑』撮影ノート」(『薔薇刑』新版、集英社、1984年)によれば、三島の蔵書、ベレンソン著『イタリアルネッサンス』の図版にあったジョルジョーネの絵の背景部分を原画として、背景画制作専門の業者に頼んで布地のバックを作ったとあります。それが褌姿の三島写真の背景画と同一かはわかりませんが、少なくとも三島は背景画を使って自らの写真を、しかも聖セバスチャンを予見するように撮らせていたことになります。

    本展出品の聖セバスチャンとしての《三島由紀夫》では、背景画は絵画ではなく写真です。今でこそ巨大な写真を使った看板や壁貼りポスターは珍しくありませんが、昔は映画館の看板なども手描きが当たり前で、『薔薇刑』の背景画も手描きです。1960年代末に背景の写真をこれだけ大きく伸ばすことができたでしょうか?

    そこで思い出したのが、今当館のコレクション展に出ている桑原甲子雄の写真《銀座のレストラン》(京橋区尾張町森永キャンディーストア、1936年)です。カフェの壁面一杯に、巨大な女性の顔やフラメンコなどをモンタージュした写真が貼ってあります。よく見ると画面に紙の継ぎ目が縦に走っています。これは幅1mほどのロール状の印画紙を貼り合わせた痕跡でしょう。昭和11年の撮影ですから、《三島由紀夫》が撮影された昭和43年時点で写真の大伸ばしによる背景画の製作は十分可能だったことでしょう。

    さすればこの聖セバスチャンとしての三島の背景写真も、篠山さんが撮影したのではないかと推測したいところです。実際、三島は殉教する聖セバスチャンが縛られていた樹木に強い関心を寄せていました。これについては管見の限りこれまで注目されていないようですが、先回紹介した三島の小説『仮面の告白』の中に、有名な「悪習」のくだりに続けて「聖セバスチャン《散文詩》」と題された一節があります。その冒頭、主人公は教室の窓から一本の「驚くべく美しい樹」を見出して胸を高鳴らせます。その樹は丸みを帯びた端正な三角形で、「その緑の下には暗い黒檀の台座のやうな・ゆるぎない幹がのぞかれた」とあります。続きを引用しますと:

    「この樹ではなかったか?」-突然私は心に問うた。「若い聖者が後ろ手に縛しめられ、その幹に雨後の滴のやうに聖い夥しい血をしたたらせた樹は。末期の苦しみにもえさかるその若い肉を、(それはおそらく地上のあらゆる快楽や悩みの最後の証拠)、彼が荒々しくすりつけて身悶えした羅馬[ローマ:筆者註]の樹は?」(三島由紀夫『仮面の告白』:決定版三島由紀夫全集1、新潮社、2000年、206-207頁)

    暗い黒檀の台座のような、ゆるぎない幹は、聖セバスチャンとしての《三島由紀夫》の背景にもしっかりと再現されています。幹のパースのついた輪郭は三角形を予感させないでしょうか。この樹はどこにでもある木であってはならず、しかるべき1本が選ばれたことでしょう。あらかじめ三島が樹の写真を用意していた可能性もありますが、三島が意中のどこそこの樹を、あるいは樹のイメージを篠山さんに告げて、それに基づいて撮影されたと考えることもできます。

    以上は本展出品写真《三島由紀夫》と対話した私の推測です。間違っているかもしれません。最後に、篠山さんが語ったこの写真の撮影後のエピソードを紹介して本展の学芸員ブログを締めくくりたいと思います。

    三島は撮影したコマすべてをフィルムごと焼き付けたコンタクトプリントのチェックを欠かさなかったそうですが、写真を選んだ時、「篠山さん、私はこれが好きです」と言って万年筆で丸をつけて、「三島」とサインしたそうです。続けて篠山さんは次の様に語っています。

    「(三島は:筆者補)自分が持っているイメージをより正確に、あるいは強調した美しい写真を僕に望んでいたのではないでしょうか。」(『婦人公論』前掲)

    この言葉には、三島に限らず、アイドルでもアスリートでも役者でも、篠山さんが肖像写真を撮るときに今日まで一貫して持ち続けている哲学に通じるものがあると思います。(おわり)

    (中村尚明) 

    篠山紀信展 学芸員コラム vol.6 「聖セバスチャン」の奇跡 上

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    「篠山紀信展 写真力」の会期も残すところ4日となりました。ここで改めてこの「写真力」という言葉について考えてみたいと思います。

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    展覧会場末尾のパネル・コーナー中の一枚に記された、これについての篠山さんのコメントに、「写された方も、撮った者も、それを見る人々も、唖然とするようなスゲェー写真」がもつ「イメージの力」とあります。力のある写真の前では、モデルもカメラマンも見る人も皆同列なのだ、そして文章などなくともイメージがあればいいんだと言わんばかりの、潔い、そして注目すべき見解です。自分が撮った写真であっても、別のものを見るようなこの姿勢。

    この展覧会に出ている写真のほとんどは、もとは何らかの印刷媒体に掲載するために撮影されたものです。雑誌の特集にせよ、写真集にせよ、広告にせよ、あらかじめ企画があって篠山さんに依頼がくるのですが、写真家は企画の方向性に参与できたにしても、例えば誰をモデルにするかは既に決まっていて、「僕にはせいぜい拒否権があるくらい」というお話でした。

    写真のすべてが「撮った者」(過去形が重要)の意のままであったわけではない、という格言があるとすれば、それは写真の宿命を語っているようにも思われますし、篠山さんのような高名なプロの仕事であれば一層はっきりと顕れてくるのです。篠山さんはその宿命をむしろ積極的に受け入れてきたばかりでなく、さらに自分の味方にする術を幾重にももっておられるのだと思います。

    ところで、《三島由紀夫》(1968年、図1)は本展出品の中でも篠山さんの意のままにならなかった度合が最も高い写真のひとつでしょう。

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    図版1 篠山紀信《三島由紀夫》1968年

    ある出版社で三島由紀夫と横尾忠則氏をモデルに「男の死」をテーマにした写真集の企画が持ち上がり、若い篠山さんが選ばれました。シーン作りの細部に至るまですべてモデルの三島が自ら演出して、15点が撮影されました。篠山さんは「映画のスチールを撮っているようでさっぱり面白くなかった」そうです。1年余りをかけて最後の一枚を撮り終わった5日後、三島は市ヶ谷の自衛隊駐屯地で壮絶な自殺を遂げます。「死のフィクション」のはずが、像主の死によって「一種のドキュメンタリー」へと写真の意味が変ってしまった、と篠山さんは三島没後40年に『婦人公論』誌(2010年12月7日号)で語っておられます。写真集「男の死」が世に出ることはありませんでした。

    この写真はそれに先立ち、1968年11月に刊行された澁澤龍彦責任編集の雑誌『血と薔薇』の創刊号で、5人の写真家によるグラビア特集「男の死」の冒頭を飾りました。三島の生前に世に出た貴重な一枚です。

    森の中の一本の大木を背に、頭上に両手を縛られ、腰布だけを身に着けた三島が、天を仰いで立っています。その右脇下、左脇腹、右の下腹部には矢が突き刺さり、血が滴っています。森の中とはいえ背景には木漏れ日がにじみ、全体に逆光気味であるのに、暗い樹幹をバックしにした三島の身体は明るくつややかで、天空を見つめる瞳には光が映っています。

    この写真を撮る際、三島の脳裏にあったのはイタリア・バロックの画家グイド・レーニの《聖セバスチャンの殉教》(図2)と言われています。

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    図版2 グイド・レーニ《聖セバスチャンの殉教》1615年頃、カピトリーナ絵画館(ローマ)蔵

    聖セバスチャンはローマ皇帝の近衛隊長でしたが、当時禁制のキリスト教に帰依し、獄中のキリスト教徒を力づけたり、人々を改宗させたりしたために皇帝から死刑を宣告されます。彼は無数の矢を射られて放置されました。描かれているのはこの場面です。瀕死のセバスチャンはある敬虔な婦人によって介抱され、蘇生します。しかし再び皇帝に反抗し、ローマの神々を冒とくしたため撲殺されました。

    三島の自伝的小説『仮面の告白』には、中学生の主人公が父親の蔵書中に見つけたグイド・レーニの《聖セバスチャンの殉教》の図版に強く魅了され、その「白い比ひ(たぐい)ない裸体」の輝きに抑えがたい興奮を覚え、初めて「悪習」の挙に及ぶ有名なくだりがあります。

    <聖セバスチャンの殉教>は多くの画家たちが手掛け、三島もルネッサンス期のマンテーニャをはじめ様々な作例を知っていましたが(詳しくは宮下規久朗氏が三島由紀夫文学館のWebサイトで語っておられます)、腰から上をクローズアップした構図、背景や道具立てがこの写真と最も近いのはレーニです。特にセバスチャンの女性的ともいえる優美な面貌と、逞しくも官能的な美しさを感じさせる身体が黒い幹をバックにして白く輝く様は、三島の心を強く捉えたことでしょう。

    逆光気味のバックで、黒い幹を背にして身体の正面が輝くセバスチャンが三島の望んだイメージだとすると、写真家にとってはなかなか難しい注文だったのではないでしょうか。篠山さんがどのような手順で撮影されたのか、ご本人からお聴きする機会を逸してしまいましたので、私なりに画面から推論してみたいと思います。考えられる可能性としては、

    その1:写真の人物はどう見ても背景とは別の光源で照らされています。戸外の撮影ならば、手前に別の光源を用意したとして、幹がこれほどうまく黒くなるでしょうか。モノクロ映画で黒の存在感をねらった黒沢明のように、樹幹に墨汁でも塗っておいたのでしょうか。

    その2:戸外で撮影し、現像や焼き付けの段階で部分的に色味を調整した。

    その3:背景をあらかじめ撮影して、スタジオで撮影した三島像を切り抜いて画像上で合成した。

    ラボでの操作やモンタージュは、三島の好むところではなかったろうと思います。篠山さんにしても同じで、いかに三島が役になりきって演技していたにしても、後から手を加えた写真に「写真力」を認めるでしょうか?やはり、写真らしいというか、あの山中湖の山口百恵の時のように、潔くワンショットで決定的な原版ができる方法を採ったのではないかと思うのです。(つづく)

    (中村尚明)

    篠山紀信展 学芸員コラム vol.5 「夜の美術館でアートクルーズ」が開催されました。

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    2月4日、閉館後の美術館でゆったりと展覧会を楽しむ特別鑑賞会「アートクルーズ」が開催されました。参加者の皆様をお迎えし、担当学芸員3名(大澤、長谷川、中村)がリレー形式で展覧会をご案内しました。

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    美空ひばりさんの写真や東日本大震災で被災した人たちの肖像を、そこに写る背景との関係から読み解いた大澤学芸員、バロック彫刻の巨匠ベルニーニの作品や浮世絵版画など、美術史上の名作と比較しながら篠山写真の美しさを語ろうとした中村学芸員。話し手それぞれの個性が感じられるツアーとなりました。

    今回のブログでは、私がこのツアーで紹介した写真の中から現役で活躍するスターの写真2点をとりあげ、「時代に共有される写真」について考えてみたいと思います。

    まずはSTARのセクション。会場から「意外!」と驚きの声があがったのが三宅一生さんの写真です。「身体の動きに呼応する服」をテーマに制作を続けるファッション・デザイナーの三宅さん。事務所設立の翌年、1971年に撮影されたこの写真は、ブランドの出発点となった刺青柄のジャンプスーツ「タトゥ」を自ら着用する三宅さんの姿を捉えています。リオ・デ・ジャネイロの海岸を舞台に、篠山さんはこのスーツの特徴が最もよくわかる背後からシャッターをきりました。「第二の皮膚」として体にフィットするジャンプスーツとデザイナーの横顔。高度経済成長期真っ只中にあった日本で、この写真は、世界に羽ばたこうとする若きクリエーターの強烈な個性を鮮明に印象づけました。それから45年。国際的な名声を確立し、ファッションだけでなくデザインの未来に向けて提言を続ける三宅さんの仕事の原点として、この一枚は新たな輝きを放ちます。

    続いて、BODYのセクションより宮沢りえさんを写した一枚。陽光の満ちる緑の草原に座り、初々しい表情でこちらを振り返るモデル。18歳の宮沢さんの清純さを「聖処女」として写真に留めようとした篠山さんは、アメリカ南西部ニューメキシコ州のサンタフェを撮影の地に選びました。そこは篠山さんの敬愛する写真家アルフレッド・スティーグリッツが、その妻で画家のジョージア・オキーフと生活し、創作していた土地、すなわち篠山さんにとっての「写真の聖地」なのです。宮沢りえさんの美しさを湛えたこの写真集は、発行部数165万という記録をうちたて、日本列島を席捲しました。発売から25周年を迎える今年、ある週刊誌で、『Santa Fe』をテーマにした篠山さんの対談記事を目にしました。今なお人々の心の中に生き続ける、まさに「伝説」というにふさわしい写真集です。

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    (長谷川珠緒)

    篠山紀信展 学芸員コラム vol.4 「写真は光だよ」

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    「篠山紀信展 写真力」が開幕して1ヶ月が経とうとしています。1月28日から、展示室で「学芸員によるギャラリートーク」が始まりました。今回のギャラリートークは、このコラムを執筆している大澤、長谷川、中村が順番に担当し、全3回の予定です。(1月28日は終了、残りは2月11日、2月25日 いずれも土曜日15:00-15:30)

    今回は、1月28日のギャラリートークで話題にあげた、篠山紀信さんの写真をとおして見る「写真と光」の関係について書いてみたいと思います。

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    本展には、縦3メートル、横2メートルの蒼井優さんの写真が展示されています。

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    《蒼井優》2011年、展示風景

    この写真について、篠山さんは『芸術新潮』(2012年10月号)で書かれていらっしゃいますが、「ぽつんと1本立った街灯の下で撮ったもの」だそうです。そのためか、背景は黒と灰色のグラデーションのなかに、人気のない道が消えていくように見え、上からの光に照らし出される蒼井さんの白い肌が、闇に吸い込まれそうな黒服をバックに、一段と際立って見えます。また、左手首を右手できゅっと掴みながら、少し不安げな表情で立つ姿から、蒼井さんのもつ繊細さが見事に伝わってきます。

    篠山さんは『芸術新潮』のなかで、この写真とともに「写真は光だよ、光!」と、写真と光の関係について記されています。写真の歴史上、この写真と光にまつわるお話しは、多くの写真家が言及してきたことでした。例えば、当館の収蔵作家であるラースロ―・モホイ=ナギというハンガリー出身の写真家は、20世紀初頭、写真は新しい「光の造形」であるとして、フォトグラムなどの実験的な表現を支持し、写真の表現領域を拡大させました。また、写真は英語でフォトグラフィ(Photography)ですが、その語源を辿ると、フォトはギリシャ語でフォトス(光)、グラフはギリシャ語でグラフォス(書く)になります。このような歴史からも、写真は光とは切り離せないメディアであることが分かります。

    篠山さんは、さらにこのような言葉も記されています。

    「写真は光がなくちゃあ写らない。(中略)朝起きれば当たり前のように陽が昇り、夜になれば電灯がつく、あまりに今の人間は光に無頓着になりすぎていないか。もっと光を大切にしよう。敏感になろう。これが写真力の基本です。」

    この写真は、蒼井さんの女優としての力と、モデルをリスペクトし、相手の最良の姿を写真におさめようとされてきた篠山さんの光に対する鋭敏さが加わることで撮ることのできた、美しい一枚だと思います。

    (大澤紗蓉子)

    篠山紀信展 学芸員コラム vol.3 水着はヌードではないが・・・

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    篠山さんが、この展覧会の楽しみのひとつは、観る人が作品と対話することだと初日のギャラリートークで語っておられました。かつて見たことのある篠山写真と向き合って、「ああ、この頃はあの彼女とつきあっていたなあ、とか、この写真にはお世話になったなあ、などと思い出してください」。この時会場から(少なくとも苦)笑いがこぼれるかと思ったらそうでもありませんでした。

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    今から30数年前、筆者が学生の頃のヌードイメージは依然として印刷物が主流でした。表現上越えてはならない境界線が読者にも明解な時代で、出せない部分は絶対に出てこないことを皆が承知しているのですが、反面このジャンルの存在自体が今とは比較にならないほどおおっぴらでした。地方から東京に出てきた学生にはそれこそ街中にヌードイメージがまき散らされているように見えたものです。電車の吊り広告に挑戦的なタイトル付きで毎週登場するカットから視線を反らすことは困難でした。

    篠山紀信の写真に筆者が出会ったのはもう少し後で、現代建築の廃墟と裸婦を、夜の怪しい色の光の中で組み合わせた幻想的シノラマ集、『TOKYO NUDE』が最初でした。程なく篠山さんは『water fruit』(樋口可南子)、そして『Santa Fe』(宮沢りえ)と2冊の写真集を発表し、結果的に例の境界線をもっと遠くに、そしてあっさりと押しのけてしまったのはよく知られている通りです。

    山中湖で撮影された《山口百恵》は水着をつけていますからヌードとは別ジャンルで、展覧会でも「BODY」ではなく「STAR」のセクションに飾られています。百恵さんにヌード撮影はあり得ませんが、それにもかかわらず、この作品はエロティックな魅力を強烈に発散しています。

    この力はどこから来るのだろう、前にもどこかで感じた覚えがあるなと画面を眺めながらふと思い出したのが、バロック彫刻の巨匠ベルニーニによる《聖テレサの法悦》(ローマ、サンタ・マリア・デッラ・ヴィットーリア教会)です。

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    The Ecstasy of Saint Theresa by Giancarlo Bernini. Church of Santa Maria della Vittoria, Rome / photo by Alvesgaspar / CC BY 4.0

    この彫像は、16世紀の修道女、アヴィラの聖女テレサの自伝に記された神秘体験に取材したものです。天から降り注ぐ黄金の光を浴びて、雲の上に仰け反るように倒れる聖女と、黄金の矢を構えてその傍らに立つ美しい天使の大理石像。自伝によれば、天使はその炎の鏃(やじり)で聖女の心臓を何度も突き刺し、彼女は強い痛みと同時に、自分が神への燃えるような愛に充たされるのを感じた、という精神的なクライマックス・シーンです。テレサ像のだらりと垂れた左腕と、左にかしいだ頭部、目と口をわずかに開いた恍惚の表情が、篠山写真に見る百恵さんのポーズ、わけてもあの、えも言われぬ表情と似ているように思われてなりません。ベルニーニの天使の眼から見たテレサ像は、丁度この百恵さんの姿と重なるのではないでしょうか。そして彼女を包む光、特に頭の周囲の水面の強い輝きと、黒い水着で縁どられた胸板に集中する夏の夕陽は、まさに神秘的でさえあります。

    《山口百恵》撮影のとき、篠山さんは百恵さんにあれこれと指示を出したのではありません。たまたまボートがあったので、「そこで横になってみない?」と促しただけで、百恵さんが偶然に見せた表情をすかさず捉えたのでした。篠山さんは写真にとっての偶然の役割を重視し、「その時写真の神様が降りてきた」と言っておられます。ベルニーニの天使は、「写真の神様」になって山中湖の篠山さんにのりうつっていた、と言えそうです。

    (中村尚明)

    篠山紀信展 学芸員コラム vol.2 篠山紀信さんのアーティストトークが開催されました

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    展覧会開幕後初めての週末となる1月7日(土)の午後、横浜美術館レクチャーホールに満員のお客様をお迎えして、篠山紀信さんのアーティストトークが開催されました。

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    これまで美術館で写真展を開くことを避けてきたと語る篠山さん。それは、写真を「もっと活きのよいもの」と考える篠山さんにとって、小さな写真を額に収めて飾る美術館があたかも「写真の死体置場」のように思われ、また、現役の写真家であるにも関わらず回顧展と見られかねないことに違和感を覚えたからでした。そんな篠山さんが今回の展覧会を決意したのは、時代を象徴する力強い写真が巨大に引き伸ばされ、美術館の非日常的な大空間に並べられたときにおこる壮絶な闘い――すなわち「写真力と空間力のバトル」に、新たな意義を見出したからだと話されました。

    「時空や虚実を超えて、脳裏に強くインプットするイメージの力」。篠山さんの語るこうした「写真力」のこめられた写真について、約30点の出品作をとりあげ、それぞれのエピソードを紹介してくださいました。それは撮影時の状況や背景であったり、現場でのモデルとの対話や無言のやりとりであったり、技術の進歩に柔軟に対応していく写真家の姿勢であったり、発表後の世の中の反応であったり......。

    「写真力」を考えるにあたり、人物写真、なかでも皆が知っている人たちの写真が最適に思われたと、篠山さんは語ります。それは、有名人の写真であれば観る人がそれぞれ個人的な対話ができるからと。トークのなかで私自身がもっとも興味を抱いたのが、「その人をもっとその人らしく撮る」という篠山さんのポリシーです。渥美清は皆が知る寅さん姿で、アイドルはもっと可愛くアイドルらしく。女優は役になりきってさらに美しく。女優の仮面を剥がして素の人間を写すのではなく、むしろ嘘の上に嘘をつくこと、仮面の上にさらに仮面を重ねることによってこそ、その人のリアリティを獲得できるという考えです。

    「松田聖子ごっこやらない?」という篠山さんのリクエストに応えてポーズをとってくれたという水着姿の松田聖子。デビュー25周年を記念した写真集のために撮影されたこの写真から、「赤いスイートピー」の松田聖子、そして1980年代の空気が立ち現れてきます。モデルの傑出した自己プロデュース能力と、その決定的な瞬間を逃さない写真家。篠山さんのいうよりリアリティのある写真は、こうしてうまれるのだと納得しました。

    リアリティのある写真。ぜひ篠山紀信展の会場で体感してみてください。

    次回のコラムもどうぞお楽しみに。

    (長谷川珠緒)

    篠山紀信展 学芸員コラム vol.1

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    写真家、篠山紀信さんの半世紀にわたる仕事のなかから、芸能、スポーツ、美術、音楽など、さまざまな分野で活躍する「有名人」の肖像を中心に紹介する展覧会「篠山紀信展 写真力 THE PEOPLE by KISHIN」。このコラムでは、本展にまつわる話題や作品の魅力を、3人の担当学芸員がリレー形式でご紹介します。初回は、大澤紗蓉子が担当します。

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    1月4日、新春にふさわしいおだやかな天気に恵まれ、横浜美術館の2017年最初の展覧会として「篠山紀信展 写真力 THE PEOPLE by KISHIN」が開幕しました。初日からたくさんのお客様がお越しくださるなか、美術館のグランドギャラリーで篠山紀信さんも出席して開会式が行われました。

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    開会式では、逢坂恵理子館長と篠山紀信さんのあいさつの後、特別に、篠山さんご本人が展示室で作品について語るギャラリートークが開催されました。展示室いっぱいに集まった人々が耳を傾けるなか、篠山さんは山中湖での山口百恵さんとの撮影のエピソードをはじめ、「現代の浮世絵」を創作したいという想いから、高感度のデジタルカメラを用いて撮影した歌舞伎役者のシリーズなど、本展を構成する「GOD」「STAR」「SPECTACLE」「BODY」「ACCIDENTS」の各セクションの代表作を選んで、ユーモアを交えつつ熱くお話しされました。

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    ギャラリートーク中の篠山紀信さん

    このギャラリートークのなかで、特にわたしの印象に残ったのは、本展の最後に展示されている、東日本大震災で被災された方たちの肖像写真にまつわるお話しでした。震災から50日後に撮影された10枚の肖像は、いずれも高さ約2m40㎝、幅約1m90㎝と、等身を超えるサイズで、男性、女性、ご夫婦、親子、兄妹など、いわゆる「有名人」ではない方たちが写しだされています。

    これまで、「写真家は時代の写し鏡であり、突出した出来事や人を撮らねばならない」と明言してきた篠山さんは、この未曾有の大震災にどのように向き合うことができるか、しばらく考えていたといいます。そんななか、ある編集者の方に背中を押され、4回ほど被災地を取材することで、ようやく『ATOKATA』(2011年)という写真集をつくることができたと述べられました。このとき、同時に撮影されたものが、本展の「ACCIDENTS」に出品されている肖像です。

    取材中、被写体となってくださった方たちの多くは、とても複雑な思いを抱えていたと篠山さんは語りました。家をなくしただけでなく、家族や親戚もいまだ行方不明という状況のなかで、疲労や無力感と、これから前を向いて進まなければという想いが混在していた時期だったそうです。そうした心情をもつ方たちに対して、篠山さんは一人一人のお話しを聞き、8×10(エイトバイテン)の大判カメラにすべてをゆだねて、僕はただシャッターを押しただけと話されました。

    トーク終了後、その場にいらしたお客様がわたしに、「全員がとても言葉にし難い、見たことのない表情をしていますね」と声をかけてくださいました。これは、展覧会という場で、この大きさの写真に向き合うからこそ、より一層強く意識されることだと思います。

    「この展覧会は美術館の大空間と圧倒的インパクトのある写真との戦い。つまり空間力VS写真力のバトルです。鑑賞ではなく体感!是非ご自身の体をその空間の中に浸してみて下さい。」

    篠山紀信さんが本展に寄せられた言葉です。展示室で写真をみたとき、そこで何を感じ・何を考えるかは、見る人によって異なります。さきほどのお客様の言葉は、篠山さんが写真に非日常的な大きさを与えたことの意義が、見る人それぞれの記憶や感情を喚起するためであることの端的な現れであると思います。同時に、「写真家は時代の写し鏡」と話される篠山さんの言葉の深さを、改めて教えてくださるものでした。

    このように本展は、展示室に一歩入ると、写された人々について、撮影された時代について、あるいは篠山紀信さんという写真家や写真そのものについてなど、さまざまな思いが去来する展覧会です。2017年2月28日(火)まで開催されています。皆さまのご来館をお待ちしております。

    次回は1月7日に開催されたアーティストトークについてご紹介します。

    (大澤紗蓉子)

    NAP「荒木悠展 複製神殿」展覧会コラム vol.4

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    「荒木悠展 複製神殿」担当学芸員の大澤です。

    前回のコラムからあっという間に1ヶ月以上過ぎてしまいました。コラムの更新が遅くなってしまい、大変申し訳ありませんでした。

    先週の金曜日、「荒木悠展 複製神殿」が開幕いたしました。開幕から1週間が経ちましたが、既に1,200人を超える方にお越しいただき、荒木さんの注目度の高さを改めて実感しています。

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    撮影:山中慎太郎氏

    また、開幕の翌日にはアーティスト・トークを開催しました。こちらにもたくさんの方にお越しいただき、幸先の良い展覧会のスタートが切れたことを嬉しく思います。

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    撮影:佐藤毅氏

     

    さて、前回のコラムでご紹介した荒木さんのインタビュー映像、先月末にようやく完成しました。既にウェブサイト上でご覧になった方も多数いらっしゃるのではないでしょうか。

    じつは今回、2種類のインタビューを作成しています。美術家としての活動のほか、Art Translators Collective(アート・トランスレーターズ・コレクティブ)という美術専門の通訳・翻訳・プロジェクトの企画運営を行う専門家集団にも所属する荒木さん。今回はその能力を生かして、英語と日本語でインタビューを収録し、ひとつは英語インタビューの日本語字幕版として、もうひとつは日本語吹き替え版として完成させました。


    日本語吹き替え版

     


    日本語字幕版

     

    インタビューの冒頭で述べられているように、荒木さんは13歳のとき、家族で二度目の渡米をしました。その際、英語がほとんどできなかった荒木さんは、「見よう見まね」で英語を習得します。しかし、英語を覚えれば覚えるほど、自分のなかに「日本人としての自分」と「アメリカ人になりきれない自分」という、二つの性質を認識するようになっていったそうです。「自分はニセモノではないだろうか。」この体験は、「本物と複製(ニセモノ)」を問う今回の展覧会のコンセプトに繋がるとともに、「誤訳」という考え方を広く捉え、作品のテーマに据える荒木さんの活動にも繋がっていきます。

    ※荒木さんの言葉に関わる体験については、3/1発売の『Pen』掲載インタビューでも話されています。新作のキーワードとなっている「casting(キャスティング)」についても触れられていますので、ご興味のある方はぜひご覧ください。

    日本語と英語。広義には日本とアメリカ(もっというと西洋と東洋)は、荒木さんにとって重要なテーマです。インタビュー字幕版は会場で上映しているほか、荒木展の英語サイトに、吹き替え版は荒木展の日本語サイトでご覧いただけます。

    こうしたコンセプトのもとバイリンガルで制作されたインタビューは、「今回の展覧会の作品のひとつ」(作家談)に仕上がっています。

    (大澤紗蓉子)

    NAP「荒木悠展 複製神殿」展覧会コラム vol.3

    「荒木悠展 複製神殿」、担当学芸員の大澤です。展覧会コラムvol.3です。

    先日、今回の展覧会にあわせ、荒木さんのインタビュー映像を収録しました。インタビュー制作を担うのは、2003年から展覧会の告知映像やインタビュー制作などで連携を行う、城西国際大学メディア学部の学生さんたちです。

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    インタビュー当日は、あいにくの曇り空。自然光の入る撮影場所だったので、刻一刻と変化する天気が心配でしたが、学生さんたちの頑張りと技術力に支えられ、素敵なインタビューを撮影することができました。このコラムを書いているときは編集の真最中。インタビューは、2月下旬より荒木展ウェブサイトで公開します。会期中には、会場でもご覧いただけます。荒木さんのこれまでの活動と新作についてお話し頂きましたので、完成の暁にはぜひご覧ください。

    ところで、このインタビューのなかで、荒木さんはご自身の制作について、次のように述べていました。

    『作品を作るうえで唯一設定しているのは、「知らない場所に行く」ということです。ここから、制作を始めています。』

    この言葉は、荒木さんがこれまで制作してきた作品の多くに共通する特徴だったので、とても惹きつけられました。

    2007年、ミズーリ州セントルイス・ワシントン大学を卒業した荒木さんは、8年ぶりに日本に帰国します。帰国後も勉強に励み、翌年には東京藝術大学大学院映像研究科メディア映像専攻に入学。本格的に映像制作に取り組みはじめた荒木さんは、在学中、「未知の領域」を求めて、《Deep Search》(2009)という作品を制作します。これは、誰もが見たくて、でも肉眼で見ることのできない場所、自分の体内を撮影する映像作品でした。

    NAP_Araki_vol.3_2.jpg《Deep Search》2009、ビデオ

    その後、大学院修了を控えた荒木さんは、大学主催の交流プロジェクトに参加し、フランス、ナント市で2週間の滞在制作を行ないます。このとき撮影された作品《Baguette Walk》(2010)は、バゲットを食べながらナント市内を散策する荒木さんの様子が、バゲットの先端に付けられたスパイカメラによって映しだされます。見知らぬ土地でのちょっとした遊び心から生まれた映像でしょうが、ここからは、カメラを通して「知らない場所」で制作する自身を見つめようとする姿勢や、何かを模索するような様子などを伺い知ることができます。

    NAP_Araki_vol.3_3.jpg《Baguette Walk》2010、ビデオ

    こうした初期の制作を経て、荒木さんは「カメラと身体」「無関係のもの(見知らぬ場所と自分など)を繋ぎ合わせること」といった、その後の作品に繋がるヒントやテーマを見出して行きます。大学院修了後も、「未知の領域」を求めて、ベトナムやスペインなど、様々な都市に滞在。それぞれの地域で出会う見知らぬ出来事、見知らぬ人、見知らぬ歴史や慣習など、そういったものをひとつひとつ調べ、撮影を繰り返して行きました。ときにはドキュメンタリー映画監督のようにカメラによって見つけだし、ときにはスパイのようにこっそり盗み撮るなど、撮影方法はそのときどきの状況にあわせ、直観的に選ばれていったそうです。こうした撮影現場でのインスピレーションと、文献や対話から得た情報をもとにした考察が、荒木さんの作品の光景を作りだしているようです。

    次回はそろそろ、今回の新作制作の様子を、レポートしたいと思います。

    (大澤紗蓉子)

    NAP「荒木悠展 複製神殿」展覧会コラム vol.2

    「荒木悠展 複製神殿」の展覧会コラムvol.2です。

    今回は、前回に続き、展覧会のフライヤーをご紹介します。

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    NAPでは、昨年度の「田中望展 潮つ路」より、共通のデザインによる展覧会フライヤーとリーフレットを制作しています(荒木展のリーフレットは3月中旬発行予定)。ロゴとデザインのベースカラーは展覧会ごとに変わり、田中展はさわやかな水色でしたが、荒木展はキッチュなピンク色になりました。

    そしてここで目を惹くのは、フライヤーのメインビジュアル。この画像は、本展の新作制作のため、アテネに滞在していた荒木さんから届いた「複製神殿コンセプトスケッチ」です。画像の下地になっているのは、アメリカ・テネシー州の州都ナッシュビルにある「パルテノン神殿」の約100年前のお土産用ポストカード。そのファサード部分に、荒木さんがアテネで撮影した2015年現在のパルテノン神殿の写真が重ね合わされています。

    ナッシュビルの「パルテノン神殿」は、知る人ぞ知る存在。アテネのパルテノン神殿と同じスケールで建てられたレプリカで、本家のパルテノンでは破壊されてしまったフリーズ彫刻や、紀元前5世紀の彫刻家フェイディアスによる金色のアテナ像なども復元されています。このコンセプトスケッチでは、こうした「レプリカ(複製)」のパルテノン神殿がベースになっています。そしてまた、このナッシュビルは、荒木さんにとって第二の故郷と呼べる場所でもあります。

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    「ナッシュビル、テネシー州 ザ・パルテノン」1910年頃、インク、紙(絵葉書)、8.8×13.9cm、作家蔵

    荒木さんは、3歳から6歳、14歳から18歳の間、ナッシュビルに暮らしていました。高校から美術を学び始め、17歳のとき、ナッシュビルのパルテノンの地下にあるギャラリーで、クラスメイトたちとグループ展を開催。そこで初めて、自身の作品として自画像を出品しました。その後、ナッシュビルの高校を卒業した荒木さんは、ミズーリ州セントルイス・ワシントン大学に入学します。大学では彫刻を専攻しますが、次第にカメラ=映像表現に関心を抱き、2006年頃から映像作品の制作を始めるようになりました。

    メインビジュアルの話しに戻りますが、荒木さんは、本展の会場となる当館のアートギャラリー1を初めて下見したとき、ナッシュビルのパルテノンの地下ギャラリーを思い出されたそうです(当館アートギャラリー1とナッシュビルの地下ギャラリーは、どちらも大きな2本の柱が中央に立っています)。そして常々、丹下健三さんの設計による横浜美術館を、どこか神殿のようなイメージでとらえていたとのこと。ここから、荒木さんは今回の展覧会にあたり、地理的に遠く離れた3つの神殿――ナッシュビルのパルテノン神殿(アメリカ)、横浜美術館(日本)、アテネのパルテノン神殿(ギリシャ)――を繋げてみる試みに挑むことを決意したそうです。

    美術を志すことを決めたナッシュビルに一度立ち返り、横浜を経由しつつ、アテネへと向かう。フライヤーに使われているメインビジュアルには、展覧会の始まりを表すこうした経緯とコンセプトが込められています。新作では、一体どのような旅の結果が見られるのでしょうか、、

    次回は、2007年に大学を卒業後、日本に帰国してからの荒木さんの活動をご紹介します。

    (大澤紗蓉子)