篠山紀信展 学芸員コラム vol.3 水着はヌードではないが・・・

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篠山さんが、この展覧会の楽しみのひとつは、観る人が作品と対話することだと初日のギャラリートークで語っておられました。かつて見たことのある篠山写真と向き合って、「ああ、この頃はあの彼女とつきあっていたなあ、とか、この写真にはお世話になったなあ、などと思い出してください」。この時会場から(少なくとも苦)笑いがこぼれるかと思ったらそうでもありませんでした。

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今から30数年前、筆者が学生の頃のヌードイメージは依然として印刷物が主流でした。表現上越えてはならない境界線が読者にも明解な時代で、出せない部分は絶対に出てこないことを皆が承知しているのですが、反面このジャンルの存在自体が今とは比較にならないほどおおっぴらでした。地方から東京に出てきた学生にはそれこそ街中にヌードイメージがまき散らされているように見えたものです。電車の吊り広告に挑戦的なタイトル付きで毎週登場するカットから視線を反らすことは困難でした。

篠山紀信の写真に筆者が出会ったのはもう少し後で、現代建築の廃墟と裸婦を、夜の怪しい色の光の中で組み合わせた幻想的シノラマ集、『TOKYO NUDE』が最初でした。程なく篠山さんは『water fruit』(樋口可南子)、そして『Santa Fe』(宮沢りえ)と2冊の写真集を発表し、結果的に例の境界線をもっと遠くに、そしてあっさりと押しのけてしまったのはよく知られている通りです。

山中湖で撮影された《山口百恵》は水着をつけていますからヌードとは別ジャンルで、展覧会でも「BODY」ではなく「STAR」のセクションに飾られています。百恵さんにヌード撮影はあり得ませんが、それにもかかわらず、この作品はエロティックな魅力を強烈に発散しています。

この力はどこから来るのだろう、前にもどこかで感じた覚えがあるなと画面を眺めながらふと思い出したのが、バロック彫刻の巨匠ベルニーニによる《聖テレサの法悦》(ローマ、サンタ・マリア・デッラ・ヴィットーリア教会)です。

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The Ecstasy of Saint Theresa by Giancarlo Bernini. Church of Santa Maria della Vittoria, Rome / photo by Alvesgaspar / CC BY 4.0

この彫像は、16世紀の修道女、アヴィラの聖女テレサの自伝に記された神秘体験に取材したものです。天から降り注ぐ黄金の光を浴びて、雲の上に仰け反るように倒れる聖女と、黄金の矢を構えてその傍らに立つ美しい天使の大理石像。自伝によれば、天使はその炎の鏃(やじり)で聖女の心臓を何度も突き刺し、彼女は強い痛みと同時に、自分が神への燃えるような愛に充たされるのを感じた、という精神的なクライマックス・シーンです。テレサ像のだらりと垂れた左腕と、左にかしいだ頭部、目と口をわずかに開いた恍惚の表情が、篠山写真に見る百恵さんのポーズ、わけてもあの、えも言われぬ表情と似ているように思われてなりません。ベルニーニの天使の眼から見たテレサ像は、丁度この百恵さんの姿と重なるのではないでしょうか。そして彼女を包む光、特に頭の周囲の水面の強い輝きと、黒い水着で縁どられた胸板に集中する夏の夕陽は、まさに神秘的でさえあります。

《山口百恵》撮影のとき、篠山さんは百恵さんにあれこれと指示を出したのではありません。たまたまボートがあったので、「そこで横になってみない?」と促しただけで、百恵さんが偶然に見せた表情をすかさず捉えたのでした。篠山さんは写真にとっての偶然の役割を重視し、「その時写真の神様が降りてきた」と言っておられます。ベルニーニの天使は、「写真の神様」になって山中湖の篠山さんにのりうつっていた、と言えそうです。

(中村尚明)