石田尚志展 スタッフコラムvol.1

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画家/映像作家・石田尚志さんの主要作品を網羅する初の大規模個展「石田尚志 渦まく光」の開幕まで、いよいよ2か月をきりました。遅ればせながら私、本展覧会の担当学芸員の松永真太郎と申します。今後このブログで、私を含めた展覧会担当者・関係者が展覧会準備状況や関連情報を不定期に発信していきます。

さて、石田さんはいまや全国の美術館から引く手あまたなアーティストですが、こと横浜美術館とは以前から浅からぬ縁があります。なかでも、当館の公開制作プログラム「AIMY(アーティスト・イン・ミュージアム横浜)」に石田さんを招聘し、長期の滞在制作がおこなわれた2006年は、そのハイライトでした。

滞在制作の期間は、2006年10月下旬から翌年2月上旬までの4か月あまり。石田さんのご自宅から美術館まで電車で1時間もかからないので、正確には「通勤制作」です。毎日、11時前後になると美術館のアートギャラリーに姿を見せ、そこに造作されたセットのなかで描いては撮影し、また描いては撮影するという反復作業を黙々とこなして(ときどき何も手につかない状態に陥りつつ)、時おり来館者と軽く言葉を交わしたり、ふとどこかに姿をくらませたりしながら、日が暮れる頃には多摩美術大学夜間部の講義をしに向かう・・・という日課を繰り返す石田さん。そしてその過程で刻々と変転していくスタジオの様相。やっている作業はいつも変わらない、なのに次のシーンがどう展開するかは予測不能、という石田さんならではの制作スタイルを間近に見届けられる、私にとっても稀有な経験でした。(当時の概要はこちら

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滞在制作風景(2006年11月11日)

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滞在制作風景(2007年2月11日)

ところで、その時の石田さんを私以上に至近距離で見ていた(というより石田さんとともに制作に従事していた)人がいました。この滞在制作において石田さんの「右腕」となって働いてくれた、祢津悠紀(ねつ・ゆうき)さんです。祢津さんは、学生時代に石田さんの作品と講義に接して感銘を受けたことがきっかけで親交を深め、以来、石田さんの公私にわたる大事な場面で必ず呼び出しがかかってしまう存在であり続けています。石田さんにとって大切な弟分として、あるいは示唆に富んだ助言者として、ときには単なる雑用係として、無二の関係を築いてきた方です。ちなみに、この特設サイトにある石田さんのインタビュー映像の撮影・編集をしてくださったのも、ほかでもなくその祢津さんです。

さて、この滞在制作で撮りためられた1万枚を超えるデジタルスチルは、編集作業を経て、最終的に《海の壁-生成する庭》《海の映画》(いずれも2007年)という2つの映像作品に結実します。両作はその後、国内外の展覧会・映画祭等あわせて15か国、30箇所以上で展示・上映され、石田さんの代表作のひとつとなったわけですが、はじめて一般に公開したのは2007年3月の当館での映画上映会においてでした。その時はまだ編集途上の「ラッシュ版」での上映で、作品のタイトルは《生成する壁(仮)》となっていました。

その時の上映会のパンフレットには、さきほどご紹介した祢津さんご執筆による滞在制作ドキュメント「アシスタント回想記」が掲載されていました。今読みかえしても、なかなかの名文。いまは文筆家としても活動している祢津さん、その独創的なレトリック。そのテクストをWEB上に再録し、祢津さんの回想記を通して8年前の制作現場を回想するところから、このコラムページを始動しようと思います。

(松永)

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『生成する壁』アシスタント回想記

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この上映会の宣伝ちらしの裏表紙に、制作中の石田尚志氏の写真が載っている(編集者注:上の写真です)。壁から床に長い白線を切り開いている石田氏の手前の、カメラの影が立つ左手の暗がりにもうひとつ人影が見えるかと思う、それが私である。『生成する壁』プロジェクトの撮影が年をまたいで五ヶ月に及ぶその間、石田氏と私は三台のデジタルカメラと二台のデジタルビデオカメラ、二台の16mmカメラによる複雑な被写視野の交錯からまぬがれた曖昧な暗闇からペンキの匂いを吸い込み、滴の落ちるかすかな、あるいは絵の具を含んだ筆が壁に叩き付けられる音、または数分に一度、異様な沈黙とともに鳴くシャッター音に聞き耳を立てていた、スタジオには時計が無かった。そしてもう一台の、私たちのうしろにしばしばスタジオに訪れる美術館スタッフの桜庭さんの小さなデジタルカメラが寄り添っていた、裏表紙の写真を焼き付けた彼女のカメラのほど近くには、担当学芸員の松永さんとスタッフの関さん、庄司さんが同じ景色を共に見ていたかもしれないが、私はその瞬間を思い出せない。または見ていなかった、背を向けているので、、、何だかまるで写真のとおりだし、また、写真とはそういうものらしい。スタジオを写した桜庭さんのカメラ、スタジオの一角に建てつけられたひとつの部屋を石田氏込みで見ている私、部屋の壁を渡る筆先を見入る石田氏。毎日の作業工程をかきとめた日記帳によると、写真は十二月の終わりにさしかかったある日のスタジオの様子らしかった。この日はとりわけ重要な展開があった、線が伸びひしめいて濃紺の部屋のなかに白く塗り潰された壁と床の一帯は、あるカメラからは部屋のパースをあざむいて歪みのない真四角として(見えて)、撮影の準備のうちに作り置いていた一枚の、白い身の丈を超える実体の壁が、このあと部屋の白抜きに重なって呼び出されるようにあらわれる、という作業の途中のはずだ。年明けまもなく取材に訪れた朝日新聞の記者はとても熱心にこれらの演出に問いを投げていた。石田氏は、実は演出に意図はありません、作品の完成像も、まだ見えていません。むしろ日々描き連ねることで一体どんな効果が現れるのかが見たい。と答える、三ヶ月の制作公開のうちにも、スタジオに訪れた百人近くの観客の方々ともしばしば、同じやりとりがあった。私もまた(四年前、)少なからず繊細さと理知をたたえる石田氏の映画群が絵コンテも構成表も持たない、ほとんどいきあたりばったりといえる描画の繰り延べと集積から生まれると知って仰天した観客の一人だった。『生成する壁』は四月二十一日からの『水の情景』展出品への撮り下ろしであるため、テーマとして「水」が与えられているが、石田氏の制作はそのものが「水」への解釈を(筆によってあたらしい水脈を訪ねるように、)徐々に汲み上げる過程であった。部屋にペンキをまき散らし、水を降らしつめて絵を洗い流し、霧を作り、壁に投げかけた(沖縄の水平線の)映像と床に落ちた水鏡の反射のあわいに描線による像を重層してゆく、これらの行為の複雑な厚みはそのままラッシュフィルムからスクリーンの乾いた布面に滲み還ってゆくだろう。そして、ではスクリーンに還らないものは何だろう。裏表紙の写真に写った(写らなかった、)数人の私たちが嗅いでいたペンキの匂いと様々な音の、おそらくあらゆるアトリエで立ちこめるやはり霧のようなかさなりかもしれない。ペンキの匂いは乾きつつある水の気配をさせて、そして多分に手間のかかる日々の作業は絵の具の乾きを待つ長い時間を含んでいた、そのあてどない待ち時間は、そのまま「絵」が「乾いた絵の具」だというからくりが内蔵する「水の時間」へと繋がっていった。「絵」は「えがく」という時間を伴った行為こそが「乾いた」ものだった。幾度も塗り潰されることで壁は「絵」と「地」の間を往復しつづけ、しかし映像を巻き戻すようにはもとの「地」に戻れないことを示すように、重ねられた筆跡のかたちの凹凸を表面に残しつつ静かに厚みを増すのだったが、同時にその過程は編集という純粋な往復のためのもうひとつの素地を渉猟する「映画の時間」の巨大な起伏のなかにあった。作業がはやく空けた夕方にこの美術館の図書室で、エジプトの壁画集をひらくことがあった、盗人にはがされ取られた「壁の画」が、博物館の壁にもういちど貼られる。エジプト壁画の皹割れのくろぐろとした影の奥には博物館のもうひとつの壁が白いままで覗き、その遠い白さはなぜか銀幕の遠さを思わせた。つぎの朝になり石田氏よりひとあし早く入った無人のスタジオもまた、やはり室内の床壁に食いこんだかりそめの空間であり、私はこの美術館そのものの震えを聴くような気がした。朝の壁は(きっと作者さえ)まだ知らない変貌を待って口をあけていた。そこではやはり昨日の匂いと今日の音がし、やがて画家がやってくる。

(祢津悠紀、アシスタント)